近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄のドジャース「トルネード旋風」を近鉄の同僚投手はどう見た?「自分は絶対通用せえへん」野茂に次ぐ“エース”がメジャーを目指さなかったワケ
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2024/06/02 11:02
メジャー挑戦1年目から好成績を挙げ、フィーバーを巻き起こしたドジャース・野茂英雄。その姿を近鉄投手たちはどう見ていたか
「俺は全然、その気はなかった。間違いなく、自分は絶対通用せえへんと思っていた。そこはさすがに、自分の力量は分かるからね。ホント、メジャーなんてイメージが湧かないから、行きたいということもなかった。でも結局、吉井(理人・現千葉ロッテ監督)さんとかは『行きたい』という思いが、やっぱり出て来たんだろうね。メジャーに行って通用するのかどうか、自分も試してみたいと思いながら行った人、多いんじゃない?」
山崎が例に挙げた吉井は、1995年の開幕直前に近鉄からヤクルトへ移籍すると、1997年オフにFA権を行使。メジャー1年目の1998年はメッツで野茂とともにプレーするなど、メジャー5年間で通算32勝。それこそ3歳年下の野茂に“感化された”一人だろう。
赤堀が経験した2度の日米野球
1994年まで3年連続でパ・リーグのセーブ王となっていた赤堀は山崎と同様、後に続くという気持ちにはならなかったという。
最大の理由は、赤堀が選出された2度の日米野球にあった。
まず1992年、赤堀は野茂とともに日本チームのメンバーに選出されていた。その時の全米オールスターズは、そうそうたるスターたちが名を連ねていた。
1989年に阪神で1年間プレーしたセシル・フィルダー(デトロイト・タイガース)は帰国後の1990年から2年連続でア・リーグ本塁打王、3年連続で打点王。日米野球の8試合すべてに出場し、打率.440、2本塁打をマークした。イチローが「憧れの選手」として挙げたケン・グリフィー・ジュニア(シアトル・マリナーズ)は当時22歳。8試合出場で打率.353、二塁打5本。守備の名手で「オズの魔法使い」と呼ばれたオジー・スミス(セントルイス・カージナルス)も、全米チームの一員として来日していた。
野茂は3試合・8回を投げて自責点6。フィルダーにも一発を浴びるなど、メジャーのパワーの前に屈する形になった。それでも、ロジャー・クレメンス(ボストン・レッドソックス)が巨人単独チームを相手に5回1安打の快投を見せる姿を東京ドームのスタンドで観戦していた野茂は、本物のメジャーリーガーを目の当たりにして「すっかりひきこまれてしまった」と当時のインタビューで振り返っている。