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“消えた天才”あの高校サッカー得点王は今…「もしかして、あの平澤さんですか?」“Jリーガーにならなかった男”が選んだ超一流企業の仕事
text by
栗原正夫Masao Kurihara
posted2024/04/21 17:03
東海大一高時代に選手権得点王になった平澤政輝。Jリーグを選ばなかった平澤が、“その後”を明かす
僕は運転が好きでしたし、トヨタのなかには車の走行テストなどを行うための高度な自動車教習所みたいなところがあって、そうした部署の方が自分らしく働けるかなと考えたんです。運転は得意だったわけではないですが、駐車場に停めるときバックでささっと入れられたらカッコいいじゃないですか。
異動した後、数年間は運転訓練を受けて、のちに指導員になりました。一応、指導員の資格としては社内で最高レベルまで取得しました。その後は緊急回避テストといえば分かってもらえるでしょうか……自動車のエアバッグがきちんと作動するかとか、背の高い車のロールオーバー(横転)の危険性を評価・実験するスタントマンに近いような作業にも携わっていました。
ドライバーの仕事をするにあたってサッカーをやっていたことが活きたかどうか? 体は使うには使いますが、どうなんでしょうか。自分にはわからないですね(笑)」
そして現在はトヨタ自動車・東富士研究所(静岡県裾野市)で将来モビリティー試験課に所属し、次世代の乗り物開発に携わっているという。
「これでオレのサッカーは終わった」
最後に改めて平澤にとって高校サッカーとは何だったのか、と聞くと「青春かな」と笑った。
「東一の応援ってブラスバンド部が演奏するアントニオ猪木の入場テーマの『炎のファイター』だったんです。いまだに“猪木の歌”が流れてくるとやる気が出ますからね。逆に“清商サンバ(ライバル・清水商が応援で演奏していた曲)を聞くと、腹が立つ(笑)。
注目してもらったことで燃え尽き症候群になってしまったというか。高3の最後に選手権の決勝で国見に負けたときは『あしたのジョー』のラストじゃないですが、『これでオレのサッカーは終わった』と頭が真っ白になったのを覚えています。もし大学に行っていて、その卒業後にJリーグができていたら、また話は違ったかもしれないですが……。当時の日本リーグはほとんどお客さんも入ってなかったですし、いくらサッカーがうまくても進学や就職の1つの武器でしかなかった時代です。
女の子にモテたいという一心で頑張ったのに、結果的には彼女と地元の街も歩けないようになってしまってサッカーが嫌いになってしまった。JSL1部では2点しか取っていないし、僕のサッカー人生は高校サッカーがすべてだったんです」