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「ボノちゃん」から電流爆破マッチまで…横綱・曙はなぜリングに上がり続けたのか? カメラマンが見た“心やさしい愛妻家”のプロレス時代
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2024/04/16 17:29
“因縁”のボブ・サップにプロレスのリングでラリアットを見舞う曙。2013年1月4日、東京ドーム
なぜ、曙はリングに上がり続けたのか
曙はプロレスが好きだった。ハワイでプロレスを見て育った少年は、プロレスというものを理解していた。どうしたら観客を喜ばすことができるかも考えていた。203センチの巨体は説得力があった。少し時間はかかってしまったが、曙はリングでいい動きを見せるようになっていった。
2012年8月に行われた大仁田厚との有刺鉄線電流爆破マッチはすごかった。「横浜大花火」とうたった大会は、その名の通り火薬量を増やした。曙はそのリングで勝利したが、爆破の熱風を吸い込んでしまい、肺などの呼吸器を痛めてしまった。
そんな曙が全日本プロレスの三冠ヘビー級王座に就いたのは2013年10月だった。かつてタッグパートナーを務めてくれた諏訪魔の三冠王座に挑戦した。最後はパイルドライバー(ヨコヅナ・インパクト)で諏訪魔からフォールを奪って、第47代の三冠ヘビー級王者になった。プロレスデビューから8年が過ぎていた。曙はリングサイドにいた夫人と喜びのキスを交わした。横綱に最もふさわしい、両国国技館での戴冠だった。
2015年5月、曙は三冠王座返り咲きを果たしたが、不整脈に悩まされていた。それでもリングに上がり続けた。プロレスが好きだったから。
2017年4月、曙は福岡での試合後、病院に搬送された。それから長い闘病生活を続けていたが、この4月に息を引き取った。54歳だった。
曙の訃報が伝えられた日、JR両国駅構内に設置されている背比べの203センチのゲージを見上げたり、色紙の手形に手を合わせたりする人の姿がいつもより多く見られた。
都営地下鉄大江戸線の両国駅からJR錦糸町駅方向に向かう北斎通り沿いに、野見宿禰(のみのすくね)神社がある。相撲の神様とされる野見宿禰を祀っていて、曙も1993年、第64代横綱になったとき土俵入りを奉納したところだ。そこには歴代横綱の名前を刻んだ石碑が2つ並んでいる。
一基目には初代「明石志賀之助」から46代「朝潮太郎」まで、その右脇の二基目は47代「柏戸剛」から始まって73代「照ノ富士春雄」まで彫られている。上段に「米国 曙太郎」とあるが、まだ存命を示す赤い文字のままだ。