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「初出場センバツ初戦でノーノー達成」“常勝軍団”大阪桐蔭…無名時代のエースが語る“奇跡の瞬間”「鍼治療をしたら『あれっ、痛くない』って」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by(L)Asahi Shimbun、(R)Genki Taguchi
posted2024/03/28 17:46
大阪桐蔭のエース平嶋の中学時代のコーチ・和田友貴彦氏。1991年センバツ初出場時のエースで、初戦からノーノー達成など日本に衝撃を与えた
夏が近づくにつれ周囲の期待がプレッシャーや焦りへと繋がり一時は不振に陥ったが、甲子園では準々決勝で「東の横綱」と呼ばれた帝京相手に2失点完投を演じるなど、エースとしての役目を果たした。
大会トータルで評価すれば、4試合に登板して防御率3.24と、3試合で0.45だったセンバツほどのパフォーマンスは発揮できなかったかもしれない。
しかし、ストレートの最速は145キロまで伸びるなど成長は見せていたし、なにより肩の痛みが再発せず投げ切れたことに意義があった。
その和田の右肩がまた鈍り始めたのは、東洋大の2年生になってからだった。
1年生から東都大学リーグのマウンドに立ち、2年生の春は先発として、秋には主にリリーフとしてフル回転したが、違和感を抱えながら投げていた肩はいよいよ悲鳴を上げた。
「夏くらいまではよかったんですけど、秋のリーグ戦の途中あたりから『ちょっと痛いかも』となって、終わった頃には投げられないくらいになっていましたかね」
スポーツ医学で有名な大病院を回る。ファーストオピニオン、セカンドオピニオン……診断結果は、どこも「肩の腱が損傷している」で共通していた。そして、医師たちは「手術をしたほうがいい」と進言する。
和田が選んだ「手術をしない」という決断
ピッチャーにとって肩は命だ。ましてや和田は、ルーズショルダーである。プロ野球でも元ヤクルトの伊藤智仁や元ソフトバンクの斉藤和巳がそうであったように、一度、メスを入れれば実戦復帰まで長期間のリハビリを強いられるし、トップフォームに戻る確証があるとは言い切れなかった。
和田は手術をせず、怪我と付き合いながら投げることを選んだ。
「あの頃はまだ、痛いと言っても投げられていたんですよ。だから、『自分で鍛えながら、だまし、だまし投げられるなら投げよう』と」
大学3年になってからも、自分に適した治療を施してくれる病院を探した。だが、どこも「手術」という条件がつきまとい、回避する。高校時代の“奇跡”に託すように富山まで鍼治療に向かったが効果がなく、「やっぱ、あの時だけか」とうなだれる。結果的に接骨院や整体で痛みを和らげながら投げることしかできないまま、大学生活を終えた。