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二軍スタート→一軍で敗戦処理→セットアッパーに…《昨季51登板の大躍進》大ケガ克服の日ハム・池田隆英“飛躍のきっかけ”はあの「百獣の王」?
posted2024/02/16 17:01
text by
高木遊Yu Takagi
photograph by
JIJI PRESS
まるで積年の鬱憤を振り払うかのような雄叫びを何度も上げた。日本ハムの池田隆英は、プロ7年目の2023年に自己最多の51試合に登板。1年間で二軍スタート→一軍の敗戦処理→8回を任されるセットアッパーと成り上がって見せた。
「回り道をしすぎました」と池田自身が苦笑いするように、ようやくたどり着いた居場所だった。
東京・創価高時代から「プロ注目の逸材」だった。だが、たった1つのプレーで池田の野球人生は暗転する。
右膝の前十字靭帯断裂――。
一般的には最後の夏の西東京大会4回戦のバント処理の際に断裂したかのように言われているが、おそらく大会前にはもう靭帯は切れていた。本番を直前にしたある日の練習試合、走者として塁に出た池田は、相手投手の牽制球に対して難なく帰塁したが、その際に体勢を崩した相手野手にのし掛かられたことにより、右膝があらぬ方向に曲がってしまった。
だが、池田は監督に甲子園をかけたトーナメントで登板を懇願した。
「高校生だと、甲子園しか見えないところがあるじゃないですか」
テーピングとギプスで右膝をガチガチに固めた。
「もしあの時に戻れたとするなら投げますか?」と問うと「うーん……」と少しだけ間を置いた。
「やらないなあ。やれない。当時のヤバさを今は知っているから」
松葉杖をついて入部した大学時代
言葉の重みが痛いほど伝わった。
手術を経て入学した創価大では松葉杖をついて入部し、リハビリに長い時間を費やした。それが終われば万全というほど甘いものではない。バランスが崩れ他の箇所に負担が生じてしまったり、故障以前の感覚で脚を上げることはできなくなったりするなど、過去の自分には戻れなかった。高校から同期の田中正義が鮮烈な活躍でスターダムを駆けあがろうとする中、池田は大学3年時まで未勝利だった。
4年時に春秋合わせて7勝と活躍し、2016年のドラフト会議で楽天から2位指名。高い評価を受けてプロ入りしたが、プロでも何度も故障に見舞われ、2019年には開幕と同時期に右膝に再びメスを入れた。その年のオフには育成契約を打診され、入団時に「30」だった背番号は翌年「130」と3桁になった。