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「監督を取るか、女を取るか」野村克也はこうしてクビになった…沙知代のお説教「アンタ、なに教えてんのよ!」愛弟子が見たノムさんの素顔
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/02/13 11:04
野村克也と沙知代夫人(写真は90年代、ヤクルト監督時代)
「野村さんは私が試合を締めた後、マウンドに走ってきて『ミチ、今日もいい酒が飲めるな』と言ってくれるんです。酒を飲まない人でしたが、その言葉は『今日は門限破っていいぞ』と言っているようなもの。結果を出せば、多少のことは目を瞑ってくれる人でした。一応、門限は1時と決まっていたんですが、選手たちは『午前じゃなくて午後1時だろう』と言うほど。それほど放任でしたね」
「監督を取るか、女を取るか」でクビに…
選手の自主性に任せたチーム運営は、南海ナインにピタリとはまり、野村の監督就任4年目にはリーグ優勝。その後のシーズンも健闘するが、1977年シーズン終盤、野村は監督を解任される。理由は沙知代によるチームへの口出しである。
「マミーはピッチャーには何も言わず、『マミーすみません。打たれました』と言っても、『明日、頑張んなさい』だけ。野村さんはピッチャーを一番大事にしていましたから、そこは分かっていたのでしょう。でも、バッターたちはきついことを言われてましたね。選手はもちろん、高畠導宏バッティングコーチまで『アンタ、なに教えてんのよ!』と怒られていましたから」
野村の公私混同に対して不満を言えば、トレードに出される可能性もあり、特に野手陣には不満が溜まっていたという。これを問題視した球団は、「監督を取るか、女を取るか」と野村に迫り、野村は沙知代を取った。
「以前の記事では、野村さんは慕われていたと言ったけど、いざ野村さんが監督を解任されると、チーム内は野村のノも出ない空気でした。主人が変わるときは、こうも人間ハッキリするのかと思いましたね。私は当時は選手会長を務める立場でしたから、野村さんに指名してもらったし、かわいがってもらってもいた身として複雑でした」
その年11月、野村はロッテへの移籍が決定した。以後、佐藤が野村と同じユニフォームを着ることはなかった。
選手や監督として球界に残した記録はもちろん、私生活なども含めてファンの記憶に残っている野村克也。佐藤は等身大の野村を知る数少ない証言者でもある。佐藤は、自身が経営するスナック「野球小僧」で、昭和の熱い時代をともに生きた選手たちに思いを馳せながら、今夜もグラスを傾けている。
<前編、中編から続く>