プロ野球PRESSBACK NUMBER
野村克也監督「お前、カネもらってんのか?」野球賭博で警察官がファンを現行犯逮捕…ノムさんの愛弟子が語る「昭和のプロ野球がヤバかった」
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byAFLO
posted2024/02/13 11:02
南海ホークス時代の野村克也。1954年にテスト生で同球団に入り、1970年~1977年までは選手兼任監督を務めた
学生服姿の佐藤に対し、スーツ姿で現れた野村は当時34歳。この4年前には三冠王を獲得し、南海の正捕手として球界を代表する選手となっていた。佐藤家にやってきた野村は両親に向かって「来年から監督になる野村克也です。息子さんを1位で指名させていただきました」と挨拶した。
「とにかくプロになりたかったから、行きたい球団は特になかったです。強いて言えば、西鉄ライオンズと広島カープは東京から遠いから、大阪までの球団ならいいなと思っていたくらい。だから、南海だと聞いて喜んで行ったようなものです。挨拶に来た野村さんには、三冠王獲った割に小さな人だなあと感じたのを覚えています。しかし、キャンプでユニフォーム姿の野村さんを見たときは非常に大きく見えましたね。これが、スター選手のオーラなんだと実感しましたよ」
野村監督「知らない人と飲みに行くな」
晴れて入団の契約を交わした佐藤。契約金は1700万円、年俸は180万円だった。
「私がかかったドラフトがあった1969年に、黒い霧事件が発覚しました。それまで、ドラ1だったら契約金3000万、4000万は当たり前だったらしいですが、事件の影響で新人の契約金や年俸が絞られたんです。私はお金で揉めたくなかったし、仕方ないかと思ってサインしました。私自身、八百長問題について、あまりよくわかっていなかったですしね」
黒い霧事件とは、プロ野球関係者による金銭授受を伴う八百長事件である。事件が発覚した後も、野球賭博の空気は関西に色濃く残っていた。南海へ入団し、大阪でプレーを始めた佐藤にとっては、様々なカルチャーショックがあったという。
「入団早々、野村監督やフロントからは『知らない人と飲みには行くな。飲み屋で知らない人にご馳走にはなるな』と厳命されましたよ。相手が賭けをやっていて、一緒に写真でも撮ったものなら球界を永久追放されるような時代でしたからね。綺麗な女性が飲み屋で声をかけてくるのも、警戒してました。バーで飲んでいると、店員から『あちらのお客さまからです』と酒をよこされることもありましたね。お酒をくれた人を見てみると、いかにもという風貌。そういうときは同じ酒をお返ししていました。そうすれば、ご馳走になったことになりませんから」
野村監督「お前、ゼニもらってんのか?」
そうした野球賭博に巻き込まれるリスクが潜むのは、夜の街だけではない。