Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「このままじゃヤバい…」プロの壁にぶつかった元U-17W杯のエース西川潤21歳、意識が変わった“屈辱のSB”とオランダ戦「あそこで僕は…」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byNaoki Morita/AFLO
posted2023/11/09 11:07
アジア大会での西川潤。サガン鳥栖で得た力を、パリ五輪を目指す日本代表として発揮する機会を増やせるか
「このままじゃヤバいなって、改めて思った」と語ったように、西川が危機感を覚えるタイミングは過去に何度もあった。なかでも強烈に脳裏に刻まれているのは、セレッソ大阪からサガン鳥栖に期限付き移籍をして半年後、22年6月の天皇杯2回戦のヴェルスパ大分戦だ。
「ケガ明けで使ってもらったんですけど、パフォーマンスがあまり良くなくて。そうしたら途中から、本職ではない左サイドバックに変わるように命じられて……」
高校時代から年代別の代表として世界と戦い、近い将来の日本代表や海外でのプレーを思い描いていたのに、プロ入りから2年半が経ち、サイドバックに回される自分がいる――。
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その現実が、西川を打ちのめした。
「レンタルで覚悟を持って鳥栖にやって来て、いったい何をしているんだろうって。すごく悔しいけれど、これが今の自分の立ち位置なんだなっていうことを、ズドンと突きつけられたというか。そのおかげもあって、自分自身、本当に変わらなきゃいけないっていう思いが強くなりました」
セレッソでの苦闘は「あまり思い出したくない記憶」
振り返れば、20年に加入したセレッソではプロの洗礼を浴びた。本職とは異なるサイドハーフで起用されることも多く、苦しんだ。
セレッソでの2シーズンの成績は、13試合1得点と17試合0得点。かつてU-17日本代表と桐光学園高でエースを務めた超高校級アタッカーとしては、物足りない数字だ。
「ロティーナ監督のときは、守備の立ち位置とか、ポジションを重視したスタイルで、決まり事も多かったんです。そうした戦術面に関してすべて理解できていたかというと、どうだったのかなって。自由にプレーできないなかで、自分の良さを出せなかったのは事実です。そのあとクルピ監督、小菊(昭雄)さんと2年間で監督が3人代わって、難しかったですね。あまり思い出したくない記憶です(苦笑)」
鳥栖で向き合った“自分に足りないもの”
プロ3年目を迎える22年、レンタル先として鳥栖を選んだのは、自身に足りないものを身につけるためだった。
「鳥栖はハードワークして、戦って、走って、っていうイメージだったので、自分のスタイルと合っていたわけではなくて。でも、逆にそういうところを自分に求めたかった。実際に来てみたら、川井(健太)さんのサッカーは、ハードワークをするというベースがありながら、的確な立ち位置をとってボールを受けるとか、戦術的に整理されたサッカーだった。どっちも自分に足りないものだったので、すごくありがたいです」
なかでも鳥栖のコーチングスタッフに強く指摘されたのが、プレー強度やプレーの連続性、オフ・ザ・ボールの動きだった。