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「ゴーンヌ」実況・近藤祐司は50m5秒台、垂直跳び103cmのアメフト名選手だった! 本人が明かす「アメフト部がないのでアメリカの高校に行きました」
posted2023/06/30 17:00
text by
寺島史彦(Number編集部)Fumihiko Terashima
photograph by
Yuki Suenaga
2015年から8年間務めた北海道日本ハムファイターズの主催試合の実況を卒業した今年も、毎日のようにプロ野球はもちろん、MLB中継やNBA、NFLなど幅広い競技の実況をこなしている。
今でこそ野球実況のイメージが強い近藤さんだが、元々は1994年に立命館大学パンサーズを創部以来初の甲子園ボウル優勝に導き、アメフトの大学日本代表にも選ばれるほどのトップアスリートだった。引退後に解説者転身、さらにいつしか実況まで務めるようになった。つまり、アナウンサー経験なしで実況席に座っている、唯一無二の人物なのである。今回は、原点ともいえるアメフト時代から、スポーツアンカーとしての現在まで、異色の経歴を存分に語ってもらった。<全3回の第1回/「大学」編は#2、「実況」編は#3へ>
陸軍vs海軍の伝統の一戦に釘付けに
近藤さんは1974年京都府生まれの49歳。父が航空会社に勤めていた関係で、幼少期から海外を飛び回っていた。アメフトとの出会いは小学1年生からの4年間を過ごしたグアムで観た中継だった。テレビの画面に映る激しいぶつかり合いに近藤少年は釘付けになった。
「Army-Navy Gameという、アメリカの陸軍士官学校と海軍兵学校が戦う、カレッジフットボールにおける伝統の一戦があるんです。毎年、全米中継されるほど注目度が高いんですが、僕が初めてアメフトを観たのがこの試合でした。衝撃を受けましたね。士官学校の生徒たちがスタジアムを埋め尽くして、中でも選手がQB(クォーターバック)サックを決めると、観戦に来ている最高司令官の方を向き、手を額に当てて敬礼する。それが物凄く格好良かった。試合が終わっても興奮が冷めず、もう虜になっていました。『大きくなったらアメフトをやるんだ!』と心に決めたんです」
少年時代は活発だった。当時のグアムは現在のように観光地化される前で、「現地のチャモロ族といつもジャングルを探検して、横井ケイブ(横井庄一さんが潜伏していた地下壕)なんて、普通に遊びにいってました」というワイルドな日々を過ごした。帰国した後は中学校にアメフト部がなかったこともあり、アメフトへの憧憬を胸に秘めながら、サッカーに打ち込んだ。
受験に失敗、入学した高校にアメフト部はなかった
「京都で名門と言われている紫光サッカークラブの中学生チームでプレーしました。サッカーはもともと好きでしたし、結構いい選手だったと思いますよ(笑)。ポジションはセンターフォワードで、のちにJリーグに行く松原浩樹くんと2トップでした。ただアメフトのことは常に頭にあって、3年生になってからはリンゴスターズという京大OBを中心とした有名なプライベートチームに参加させてもらって、そこで基礎をみっちり練習して。高校からは本格的にアメフトに全精力を注ごうと決めていました。当時、京都の高校でアメフトができるのは3校くらいしかなくて、僕はそのうちの1校に入りたかった。でも……受験に失敗してしまったんです」