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選手時代の張本勲は「監督に指示出してました」…元ロッテ選手が語る“張本・落合”の強烈エピソード「打球が飛ばないんです」「じゃあ野球辞めな」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2023/06/16 11:00
40歳になる1980年、ロッテに移籍した張本勲。現役最後の球団となった
「プロテインとビタミンサプリ7種類を買って、毎日飲んでいました。当時、日本では有楽町の『アメリカンファーマシー』というドラッグストアにしか売ってなかったと思います。ウエイトは『筋肉が硬くなる』と否定的な見方をされていましたが、やらなきゃわからないよなと」
野村克也の予測…「ほとんど当たる」
79年、かつてオリオンズの4番として首位打者や本塁打王を獲得した山内一弘が監督に就任。高卒4年目の水上は持ち前の強肩と守備力を武器に、34歳の飯塚佳寛からショートの座を奪う。好プレーで何度も投手を助けたが、バッティングでは悩んだ。打席が終わるたびにベンチに俯きながら帰ってくる水上を見て、山内監督は「打てなくたって大丈夫。あの守備なら3割打者と一緒だよ」と声を掛けた。
「あの言葉は本当に助かりました。すごく楽な気持ちになれた。それでも、やっぱり打てない。打率1割9分9厘で、ホームランも3本でしたからね。今思えば、前の年に在籍していた野村(克也)さんに積極的に話を聞きにいけば良かった。いつもベンチで『次はカーブや』とか予測していて、ほとんど当たるんですよ。凄いなと思っていたのですが、大ベテランですし、自分からは話し掛けられなかった」
落合が水上に…「じゃあ野球辞めな」
打てるに越したことはない。何より、打てれば野球が楽しくなる――。そう信じていた水上はシーズン終了後の秋季練習で、運命を変える人物に巡り会う。一軍に定着した78年に野村と共に南海からやって来た高畠導宏打撃コーチが二軍から昇格したのだ。「どんなバッターになりたい?」と聞かれた水上は「ホームランを打ちたいです」と即答。高畠はその考えを否定せず、「じゃあこうしよう」と提案した。
「当時は打つ際に手首を返しちゃいけないという指導法が主流でした。でも、高畠さんは真逆で『もっとこねろ』と言う。神主さんがお祓いするように、顔の前でバットをこねる練習を教えてもらい、毎日繰り返しました。そしたら、飛距離が格段に伸びたんですよ。落合さんには『ライトに打つなら手首返しちゃダメだよ』って注意されました。『そうしないと飛ばないんですよ』と言ったら、『じゃあ(野球を)辞めな』と呟かれました(笑)」
「伝説的打撃コーチ」との出会い
なぜ、高畠はシーズン3本塁打で細身の選手のホームラン狙いを許したのか。
「『水上は当たったら飛ぶ』という確信があったんでしょうね。そのための方法論、練習の引き出しもたくさん持っていた。普通なら、絶対に認めてくれないですよ。指導者の思い通りに選手をコントロールしていた時代ですから。高畠さんは好きな方向に行かせてくれたし、山内監督も何も言わなかった」