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「イチローなら絶対にやってくれる」「客が木によじ登って試合を…」不人気だったオリックスに熱狂…“1995年の神戸”に野球は何を見せたのか

posted2023/01/17 06:01

 
「イチローなら絶対にやってくれる」「客が木によじ登って試合を…」不人気だったオリックスに熱狂…“1995年の神戸”に野球は何を見せたのか<Number Web> photograph by KYODO

1995年、パ・リーグを制したオリックスの選手たち

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中村計

中村計Kei Nakamura

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KYODO

阪神・淡路大震災で絶望の底に沈んだ神戸で、イチローとオリックスは唯一の希望だった。道路は寸断され、電車は動かなかったがグリーンスタジアム神戸では、連日満員の観客が若きスターの一挙手一投足に熱い視線を送った。その声援に押されるようにオリックスは自星を重ね、遂に神戸移転以来初のパ・リーグ優勝を成し遂げる。あの時、彼らは何を背負って戦っていたのだろうか。10年前の雑誌『Number』の記事を特別に公開する(全2回の2回目/#1へ)【初出:Number824・825号(2013年3月7日発売) ※年齢・肩書など掲載時のものです】

 '95年のオリックスは、決して派手なチームではなかった。だが、紛うことなき強者だった。先頭打者のイチローがチャンスをつくって先行し、少ない点差を継投で守り切る。田口壮いわく「相手から見れば、気づいたら負けているようなチーム」だった。

 7月に入ってもオリックスの勢いは衰えず、22日に早くもマジック43が点灯する。

 ここまできて平井正史は「ようやく優勝を意識した」という。この年、すべてリリーフ登板だったにもかかわらず15勝を上げ、さらに27セーブを記録した。とんでもない数字である。それでも平井は淡々とこう語る。

「地震がなくてもやっていたと思いますよ。プロですから」

 当時、パ・リーグの最年長投手で、オリックスの柱だった佐藤義則もこう思い出す。

「神戸の人のために、みたいな思いはそんなになかったと思うよ。どこまで行っても自分のため、家族のためにやっていた。自分たちだって生活かかってるんだから」

 いずれも本音だろう。だが、平井の神戸ヘの思いを示すこんなエピソードもある。

マジック1。のしかかる重圧

 9月13日、依然として2位以下を大きく引き離していたオリックスは、ついにマジックを1とした。翌日からも神戸での試合が4戦続き、地元優勝はほぼ確実と思われたが、ここからまさかの4連敗。イチローは4試合連続安打をマークしたものの、神戸での胴上げは見送りとなった。

「ガッチガッチでしたよ」と、田口は当時の心理状況を回想する。

「1つ負けるたびに、なんとしても神戸で優勝を決めなきゃいけないという重圧がのしかかってきた。3連敗の後なんて、みんな顔面蒼白でしたから」

 その4連敗目を演出したのが平井だった。8回、3-1とリードしている場面で登板したが、連打を食らい逆転を許してしまったのだ。この年、平井がKOでマウンドを降りるのは初めてのことだった。

【次ページ】 「イチローなら絶対にやってくれるだろう、って」

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