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「100万円って、今でも大きな金額」「決算書詳細をライバルに公開」宇都宮市と“日本一の自転車タウン”に成長したチーム運営がスゴい
text by
赤坂英一Eiichi Akasaka
photograph byJAPAN CUP CYCLE ROAD RACE 2022
posted2022/10/26 17:00
宇都宮市で3年ぶりに開催されたジャパンカップサイクルロードレース。なぜ栃木県の県庁所在地は自転車タウンになったのか
売り込みを始めて1年後の08年春、廣瀬の元に、宇都宮市役所職員・砂川幹男(故人)と市議会議員から、趣旨に賛同するメールが届く。後にブリッツェンの会長となる砂川はこの年6月、地元企業や自転車店の経営者など約40人を集めて、廣瀬のために大々的なプレゼンの機会を作ってくれた。
「この時も、自転車のプロチームを具体的にイメージしてもらうのがすごく難しかった。特にローカルな地域では、前例のないものは嫌われるし、不安視されますから。プレゼンの会場には、やろう! と前のめりになってくれている人たち以外に、呼ばれたから来た、という人も結構いたんです。『そんなの無理だろう』と言っている声も聞こえました」
ロードレースをもっとメジャーなスポーツに
廣瀬がそうした逆境に立ち向かい、ブリッツェン創立を推し進めた原動力は何だったのか。「悔しさ」だと、彼は言った。
「僕の大好きな自転車競技が、日本ではまったく知られていないことが悔しかった。それに、高校時代、サッカー部の選手は滅茶滅茶モテるのに、僕のいる自転車部がまるでモテないことも、とても悔しかったんです」
そう語る廣瀬自身、宇都宮出身で、自転車の強豪校・作新学院に進学した高1から本格的にこの競技を始めている。それが1993年、ちょうどプロサッカー・Jリーグの1年目が華々しく開幕した年だった。当時、日本全国でサッカーが空前の盛り上がりを見せている一方で、廣瀬の愛する自転車ロードレースは一般社会で見向きもされなかった。
93年秋、宇都宮で第2回ジャパンカップが開催された。世界的にグレードが高く、国内最高峰のレースで、ツール・ド・フランスで活躍し、廣瀬もファンだったイタリア人選手クラウディオ・キアプッチが優勝している。
憧れのヒーローの走りを目の当たりにした16歳の廣瀬は、まず自分もプロの選手になることを目指した。と同時に、ロードレースをもっとメジャーなスポーツにしたい、という思いを、より一層募らせたのだった。
日本人がもっとサラリーを稼げるようになるには…
しかし、高校卒業後、初めてプロチームのブリヂストン・アンカーに入った途端、廣瀬は現実に直面する。マイナースポーツゆえに観客は少なく、報酬も生活できるレベルには到底達していない。さらに、03年にスキル・シマノに移籍し、ヨーロッパのレースに参戦すると、本場のトップ選手とのレベルの差を痛感させられた。彼らと同じレースを走ると、「選手じゃなくてエキストラか風景の一部にでもなったように感じたほど」だった。
「日本人がもっと力をつけて、いいサラリーを稼げるようになるには、自転車がマイナーなままでは無理。じゃあ、どうしたらもっと人気のあるスポーツにできるのか。そこで、地域型のチームを作ればいいんじゃないか、という発想が膨らんできたわけです」
Jリーグは創立当初から、企業よりも地域に根差したチームと組織作りを理念に掲げていた。プロ野球も親会社頼みから地域密着型へとシフトする球団が増えている。スポーツ界がそういう潮流にある中、「公道を走る自転車ロードレースこそ、地域社会と最も相性がいいはずだ」と、廣瀬は考えた。