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草野球で無双していた謎の男が“ドラフト10位”で指名されるまで…元ヤクルト田畑一也「ドラフト最下位」秘話〈パンチョ伊東のラストコール〉 

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村瀬秀信

村瀬秀信Hidenobu Murase

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/10/19 11:01

草野球で無双していた謎の男が“ドラフト10位”で指名されるまで…元ヤクルト田畑一也「ドラフト最下位」秘話〈パンチョ伊東のラストコール〉<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

ヤクルトでの活躍が印象深い田畑一也。異色の経歴を持つ男は、1991年ドラフト会議でダイエーから10位指名を受けてプロの道を歩み出した

 田畑の家には「ダイエーのテストに合格し、ドラフト会議で指名される」という報を受けた、地元・富山の新聞社やテレビ局が押し寄せてきていた。

 13時からはじまったドラフト会議は、15時になっても17時になっても連絡は来ない。次第に気まずい雰囲気が漂い始めていた。

「こりゃ、もうダメだとほぼ諦めた17時半頃に来ましたよ。担当スカウトの池之上格さんから『最後だけど指名したから』と電話が来て、とにかくホッとしました。ドラフト最下位。いいんじゃないですか。華やかな経歴があればまだしも、僕の場合はソレに相応しい経歴。肩を壊してノンプロ辞めて、家業を手伝いながら、居酒屋の野球チームで早朝野球をやっていた選手ですよ。逆に言えば、それより下のヤツがいちゃダメでしょう」

腰と肩を故障し、北陸銀行を退社

 田畑の経歴は少し……いや、だいぶ変わっている。富山・高岡第一高校時代は甲子園出場こそ逃したが、2年生の秋と春の県大会で優勝、北信越大会でも準優勝。さらに86年センバツで旋風を巻き起こしたあの新湊高校にも一度だって負けたことがない、富山県屈指の本格派右腕として注目を集めた。

 卒業時にもプロからの誘いがあったが、社会人の北陸銀行に就職。だが入社後は腰のヘルニアと肩の故障に見舞われ、3年目には野球部と同時に会社も退社。安定した「銀行マン」という地位も職業も野球も捨て去り、田畑はあっという間に裸一貫となった。

「もともと、銀行マンに落ち着くタイプじゃないですからね。とはいえ、高卒でなかなか入れる企業じゃない。『辞めるなんてもったいない』って特に父親からは大反対されました。まあ、仕事もできる方ではなかったし、肩をやって、野球ができなくなったことで『やーめた』って感じでしたよ。その時はまだ考え方が子どもでしたけど、結果的には辞めてよかったんじゃないですかね」

 ハタチにして野球から一旦足を洗うも、壊れた肩はドアも開けられないほどの重症。日常生活にすら重篤な症状を残したため、退社後にメスを入れることになる。そして退院後、サラリーマンとして生きるべく某企業から一旦就職の内定を得るも、田畑本人がいうところの「思い立ったらすぐに行動する性格」の一面が悪い方に出て、正社員採用の辞令が出た日に退社。その翌月には父親に頭を下げて家業である「田畑建工」で大工として生きることを決意した。

「野球に対しての未練というものもほとんどなかったと思います。それより、銀行を辞める時に大衝突した親父から『お前、“やる”と言ったからには、絶対に途中で辞めるなよ』と言われていたので、『そらもう命懸けでやらせていただきます!』ですよ。そこからは大工の仕事をちゃんとして、休む時はちゃんと休む普通の社会人としての生活を謳歌しました。子どもの頃から野球ばっかりやっていたので、『休みがこんなに楽しいなんて!』ということが衝撃でしたね~。冬はスキー三昧、夏はバーベキューに海水浴なんてやっていたら、あっという間に時間が過ぎてね。楽しかったですよ」

【次ページ】 「やっぱり俺は野球がやりてぇ」

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