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松井5打席連続敬遠の明徳義塾戦で敗退、星稜・山下智茂監督の頭にあった幻の”勝利の方程式”「馬淵さんは策士、すごく警戒はしてました」
posted2022/08/16 06:01
text by
石黒謙吾Kengo Ishiguro
photograph by
JIJI PRESS
Number759号(2010年7月29日発売)より『山下智茂・星稜総監督が初めて明かす「松井5連続敬遠」の痛恨』を特別に無料公開します。※肩書はすべて当時
<全2回の前編/後編はこちら>
「このゲームだけは、スコア見たくないねえ。敬遠と(投げ込まれた)メガホンと、それしか頭にないな、試合の印象はね」
目の前に差し出されたスコアブックに一瞬視線を落とし、星稜高校の山下智茂総監督は唸るようにそう言った。
筆者は31年前に星稜高校を卒業して以来、母校が甲子園で戦った40試合全てをスコアブックにつけている。いつもは空白になっている備考欄に記された「校歌中、帰れコール!!」の殴り書きが、あの時の喧騒を蘇らせる。
1992年8月16日に行なわれた星稜対明徳義塾の一戦。星稜4番の松井秀喜は、5打席連続で敬遠され、一度もバットを振らせてもらえぬまま、甲子園を去った。
言えないわ、本音は。勝負師としては…
日本中で賛否両論が巻き起こったあの暑い日から18年経った。だが、1967年に監督に就任後、夏14回、春11回、星稜を甲子園に導いた名将は、これまでこの一戦について決して語ろうとしなかった。今回も、取材は受けてくれたものの、最初のうちは当然というべきか、口が重かった。
「言えないわ、本音は。勝負師としては……。馬淵(史郎・明徳義塾監督)さんは勝ったからいいけど、自分は負けた方だからな」
だが、星稜の学園理事室で膝を突き合わせ、野球部の昔話をしているうちに、ポツリポツリとあの“痛恨の一日”を語り始めてくれた。
「今まで、日本一を狙いに行ったのは、小松(辰雄)がいた時と、あの夏の2回。松井と山口(哲治)が入学した時から、松井を4番にして打の柱を作り、投手は山口を軸にして、全国制覇するぞと決意し、練習に励みました」