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松井5打席連続敬遠の明徳義塾戦で敗退、星稜・山下智茂監督の頭にあった幻の”勝利の方程式”「馬淵さんは策士、すごく警戒はしてました」

posted2022/08/16 06:01

 
松井5打席連続敬遠の明徳義塾戦で敗退、星稜・山下智茂監督の頭にあった幻の”勝利の方程式”「馬淵さんは策士、すごく警戒はしてました」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

30年前の1992年8月16日、明徳義塾戦で星稜・松井秀喜は5打席連続で敬遠策を取られ、チームも敗れた。当時の監督、山下智茂に話を聞くと…

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石黒謙吾

石黒謙吾Kengo Ishiguro

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JIJI PRESS

 ちょうど30年前の1992年8月16日、明徳義塾の徹底した敬遠策で、星稜・松井秀喜のバットは封じられた。超高校級スラッガーを育て、日本一を狙って甲子園に乗り込んだ闘将が重い口を開き、“痛恨の一日”を振り返る。
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「このゲームだけは、スコア見たくないねえ。敬遠と(投げ込まれた)メガホンと、それしか頭にないな、試合の印象はね」

 目の前に差し出されたスコアブックに一瞬視線を落とし、星稜高校の山下智茂総監督は唸るようにそう言った。

 筆者は31年前に星稜高校を卒業して以来、母校が甲子園で戦った40試合全てをスコアブックにつけている。いつもは空白になっている備考欄に記された「校歌中、帰れコール!!」の殴り書きが、あの時の喧騒を蘇らせる。

 1992年8月16日に行なわれた星稜対明徳義塾の一戦。星稜4番の松井秀喜は、5打席連続で敬遠され、一度もバットを振らせてもらえぬまま、甲子園を去った。

言えないわ、本音は。勝負師としては…

 日本中で賛否両論が巻き起こったあの暑い日から18年経った。だが、1967年に監督に就任後、夏14回、春11回、星稜を甲子園に導いた名将は、これまでこの一戦について決して語ろうとしなかった。今回も、取材は受けてくれたものの、最初のうちは当然というべきか、口が重かった。

「言えないわ、本音は。勝負師としては……。馬淵(史郎・明徳義塾監督)さんは勝ったからいいけど、自分は負けた方だからな」

 だが、星稜の学園理事室で膝を突き合わせ、野球部の昔話をしているうちに、ポツリポツリとあの“痛恨の一日”を語り始めてくれた。

「今まで、日本一を狙いに行ったのは、小松(辰雄)がいた時と、あの夏の2回。松井と山口(哲治)が入学した時から、松井を4番にして打の柱を作り、投手は山口を軸にして、全国制覇するぞと決意し、練習に励みました」

【次ページ】 松井には『ランナーおる時は敬遠あるからな』と

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