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「え、まさかここでカズさんを…」“敗退したら日本で暮らせない”状況で、岡田武史(41歳)は決断した〈元代表戦士が語るジョホールバルの裏側〉
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2021/11/16 06:00
「ジョホールバルの歓喜」から24年。元代表戦士たちが“あの試合と岡田武史”を振り返る
「岡田さんが、一夜にして驚くほど厳しくなった」
ほんの3週間前、国立競技場でパイプ椅子や卵を投げつけられた選手たちは一転、国民的英雄となった。自宅への脅迫状や脅迫電話に悩まされた岡田は一躍時の人となり、1億円を超えるCMのオファーや紅白歌合戦の出演依頼が舞い込んだ。
だが、本当のお祭り騒ぎが始まるのは、この先の話だ。'98年6月に開幕するフランスW杯に向けて、岡田と選手たちはさらなる狂騒の渦へと巻き込まれていく。
もし、あのチームを率いていたら――。
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軽く投げ掛けた質問を最後まで聞かず、51歳の井原は「できないですね」と言った。
「あんなところで引き受けたら、自分なら押し潰されてしまう。敗退したら日本で暮らせないんじゃないか、という状況でしたから。僕が福岡で感じたプレッシャーとは比べものにならない。岡田さんはあの時、41歳? あの重圧の中で、その若さでやられていたのは、本当に凄いと思います」
指揮官となった岡田の変化も記憶に残る。
「それまで優しかった岡田さんが、一夜にして驚くほど厳しくなった。初日の練習もキツかったし、実際に『気持ちが見えない』と、外された選手もいた。そういうふうにチームを引き締めてくれたんだなと」
「コーチタイプだと思っていた」という岡田の変貌は、北京五輪代表や柏レイソルでコーチを務めた井原にも影響を与えた。
「岡田さんが見せた厳しさは、僕自身も監督になった時、すごく意識しました。ただ、岡田さんのミーティングのうまさは、真似できないですね」
相馬も同様の印象を持っている。
「岡田さんが監督になって2度目のミーティングだったかな。『人間万事塞翁が馬という言葉があってな……』って話し始めたんです。故事成語を持ち出す監督は初めてだった。自分はこういう覚悟で引き受けた、ということを伝えたかったんだと思う。覚悟をしっかりと受け止められました」
「岡田さんならどんなことを言うだろう」
インタビュー中、「選手時代の気持ちを思い出すのが難しい」と語った相馬は、だから、今は岡田に共感を覚えるという。
「こんな時、岡田さんならどんなことを言うだろう、どう振る舞うだろう、と考えることは多い。すごく影響を受けていると思うし、改めて振り返っても素晴らしい仕事をされたと思う。だから、自分があのチームを率いていたら、なんて軽々しく言えない。自分にその覚悟はないですから」
ジョホールバルの一戦とは何だったのか。
呂比須にとっては、今も活力の源だ。
「その一員でいられたことは、いつまでも僕の誇りです。だから、日本で監督の仕事がしたい。これまで2回うまくいかなかったけど、また日本に戻るために、こっちで力を磨いています」
相馬は、めぐり合わせを強調する。
「たまたま'71年に生まれて、'94年にプロ選手になれて、'97年に扉を開く役目を務めさせてもらった。自分よりうまい人でも、5歳、10歳上だったら、プロになれていなかったりする。いろんな方々が繋いできてくれたバトンを、たまたま自分たちがあの時代に受け取った。だからこそ、日本サッカー界に恩返しをしないといけない。自分が経験したように、選手たちを満員のスタジアムでプレーさせてあげたい」
その想いは井原も変わらない。
「僕らの世代も監督になる人が増えてきた。今度は監督としてバトンを引き継いで、日本サッカー界の発展に貢献して、次の世代に引き継ぎたいですね」
3人の監督たちはあの日、日本サッカーの歴史を変えた。そして、ジョホールバルのピッチを駆け抜けた日から、今も変わらず、走り続けている。あの一戦を超える新たな歴史を作っていくために――。