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落合博満からいきなり「お前は競争させねえからな」13年前、中日に移籍してきた和田一浩が感じていた“落合の怖ろしさ”
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKYODO
posted2021/11/03 17:02
04年から11年まで中日の監督を務めた落合博満。すべての年でAクラス入り、セ・リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝1回を果たした
「いいか、自分から右打ちなんてするな。やれという時にはこっちが指示する。それがない限り、お前はホームランを打つこと、自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい。勝たせるのはこっちの仕事だ」
和田は再び呆気にとられることになった。
それまで野球をやってきて、チームバッティングを讃えられたことはあっても、咎められたことなどなかったからだ。そうして、落合のイメージは180度変わっていった。
和田“17歳の記憶”「ノーヒットノーランやられてるみたいだぞ」
チームを乗せたバスはすぐに山梨県から神奈川県に入った。夜の高速は空いていて出発から1時間半あまりで横浜の街が見えてきた。やがてチームが宿泊するホテルが見えてきた。和田はシートから立ち上がろうと腰を上げた。その瞬間に思わず顔をしかめて崩れ落ちた。左足にかつてない痛みが走った。よく見ると、足首から先が右足の倍ほどに腫れ上がっていた。チームメイトに肩を借りて、ようやくバスを降りることができた。症状は思っていたよりも深刻だった。
和田はなんとかホテルの部屋にたどり着くと、ベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、考えた。
明日から、どうする……。
やはり、自分ひとりで結論を出さなければならなかった。落合のチームにおいて、レギュラー選手は自分のために自分で決めたことをやればよかった。組織への献身よりも個の追求が優先された。そして、その代償として責任を負うのだ。
そうしたプロフェッショナル像は、思えば現役時代の落合そのものであった。和田には17歳の夏に刻まれた、忘れられない記憶があった。
岐阜県生まれの和田にとって、少年時代からドラゴンズブルーのユニホームは憧れだった。強豪・県立岐阜商業野球部だった高校2年の夏、和田は甲子園に出場した。初戦を間近に控えた夜のこと、兵庫県内の宿舎で夕飯を済ませた和田は、他の部員たちとともに夜の素振りをしていた。
旅館のテレビでは中日対巨人のナイター中継が流れていた。中日は0−3で負けていたばかりか、巨人のエース斎藤雅樹の前に9回ワンアウトまでノーヒットに封じられていた。
「おい、ノーヒットノーランやられてるみたいだぞ」