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“神様”バースの名前が阪神スタメンから消えた日「君は、解雇だ」…あの日本一から3年、なぜ阪神とバースは“泥沼の争い”になった? 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2021/11/04 06:01

“神様”バースの名前が阪神スタメンから消えた日「君は、解雇だ」…あの日本一から3年、なぜ阪神とバースは“泥沼の争い”になった?<Number Web> photograph by KYODO

1983年に来日。2年連続三冠王、日本記録のシーズン打率.389、7試合連続本塁打などの偉業を残したバース。なぜ日本一から3年後に引退になったのか?

「いきなり、ズルズルと連敗し始めたんだ。オレたちみんな、まるで睡眠薬を飲まされたような感じだった。ノロノロと動きがにぶくなって、まるで打てない。オレたちゃ、ふらふら虎だ」なんてさすがのバースも「週刊ポスト」87年7月17日号インタビューで意味不明なエクスキューズをかますくらい、チーム状況は最悪だった。タイガース再建の具体案を聞かれても、「とにかく、日本語もわからないオレたちに何かしろというのは無理だよ」と、周囲からの過度なプレッシャーにうんざりしたような言葉を残している。この年、自身も大洋戦でホームランを放った直後、滑り止めスプレーをバットの先端部までつける行為に相手ベンチからクレームをつけられるトラブルにも見舞われ、背番号44はシーズン最終戦が終わった3日後、吉田監督解任劇が大阪・梅田の阪神電鉄本社で展開されていた翌日にひっそりと帰国している。

「(村山監督は)バカなスピーチだった」

 そして、村山実が新監督に就任した88年シーズン、34歳の最強助っ人はこれまでの3番ではなく「4番一塁」で開幕を迎えるが、いきなり4連敗スタートとつまずき、バースのシーズン第1号もチーム11試合目と調子は上がらなかった。

 なにより村山監督と当時のベテラン選手たちの関係性は冷えきっていた。『バースの日記。』(翻訳・平尾圭吾、集英社文庫)では、「監督の罰則で長いランニングとなったが、ハードなランニングをしたからといって、われわれが上達するというのか。まったく、バカな話である」と根性論の指導法に疑問を呈し、村山監督が自分の若い頃の武勇伝を語る結婚式のスピーチも、「まったく場違いな、バカなスピーチだった」と一蹴。試合後は選手会ミーティングで、「どうせ監督は来年クビだろう」なんて盛り上がった生々しい様子が記録されている。

 一般企業でもプロ野球チームでも、結果が出ないと現場から不満が出るものだ。『バースの日記。』には、ボスに不満を持ちながらも、87年オフに阪神と新たな2年契約を締結しており、まだまだ日本球界でプレーし続けていく様子が綴られている。だが、そんな日常が一変するのが、88年5月6日だ。

【次ページ】 一本の電話「君は、解雇だ」

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