スポーツ名言セレクションBACK NUMBER
清原和博15歳が苦しんだ「PL1年時の寮生活」と、甲子園決勝前日18歳の予言「チームは優勝する。俺は2本のホームランを…」
text by
NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2021/08/18 11:03
PL学園時代の清原和博
決勝前夜、チームメイトに優勝と本塁打記録を高らかに宣言した清原は、宣言通り2本の本塁打を放ち、PLは優勝を決めたのだ。
「甲子園は、清原のためにあるのか!」
今も語り継がれる実況アナウンサーの名台詞が生まれたのも、この試合であった。
あそこまでのホームランは初めてだったんじゃないかな
<名言3>
真芯です、ね……。あそこまでのホームランは初めてだったんじゃないかな。
(清原和博/Number958号 2018年8月2日発売)
◇解説◇
宇部商戦での劇的なホームランについて、清原は33年の時を経た2018年に自らの映像を見て振り返る機会があった。
「配球というのは全く意識しませんでした。表現するなら『きた球を打つ』」
それだけを考えていた清原は、4回のレフトへの本塁打に続き、6回にも真ん中高めに浮いた球をバックスクリーンに放り込んだ。相手の意図を読むことよりも、自分のスイングを貫くのみ――18歳ながら天性のスラッガーが持っていたポテンシャルの大きさを感じさせる。
一度でいいからPLの清原・桑田と……
<名言4>
一度でいいからPLの清原・桑田と新聞に書かせてみたいと考えて努力していたんです。
(清原和博/Number143号 1986年3月5日発売)
◇解説◇
輝かしい清原の高校野球での経歴。それが暗転したのは1985年のドラフト会議だった。
清原が希望していた巨人は、早稲田大学進学を希望していた桑田を1位指名し、西武に指名された清原は涙を流した。
昭和の当時、まだプロ野球界は巨人を中心に回っており、パ・リーグへの注目度は現在よりも低かった。そのためPL学園の二枚看板と言われながら、当時の見出しの多くは「桑田・清原」の順番であった。だからこそプロ1年目の開幕前、清原は春季キャンプ中のインタビューで、激しいライバル意識を垣間見せたのだ。
そして清原は高卒1年目ながらシーズン31本塁打78打点、打率.304をマーク。見事、新人王に輝いた。