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堀米雄斗は22歳で「年収億単位&ロスに豪邸」…スケボーはなぜ“食えるスポーツ”になったのか?〈10億ドル産業〉 

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梶谷雅文

梶谷雅文Masafumi Kajitani

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posted2021/08/05 11:03

堀米雄斗は22歳で「年収億単位&ロスに豪邸」…スケボーはなぜ“食えるスポーツ”になったのか?〈10億ドル産業〉<Number Web> photograph by Getty Images

東京五輪のスケートボード男子ストリートで初代王者に輝いた堀米雄斗。22歳にして約1億円を稼ぐ業界のカリスマ的存在でもある

 振り返ると、パークやストリートの両種目で高額賞金を提供するコンテストが台頭し、スケートボードがポップカルチャーに取り入れられると同時に、Nikeやadidasといった世界的シューズブランド、そしてRed BullやMonster Energyを始めとするエナジードリンクが次々と本格的に業界に参入していった。そうして、コンテストで好成績を残し大手企業とスポンサー契約を結ぶアメリカのプロスケーターは富と名声を手にするようになっていったのである。

 こうして海外(アメリカを中心に)でスケートボードが“食えるスポーツ”となったのだ。

海外から「10年遅れていた」日本は……

 一方の日本では、インターネットが普及する2000年代以前、スケートボードの最新情報を入手する術はアメリカ西海岸から輸入されるVHS方式のスケートビデオ(プロスケーターの滑りが収録されている)や専門誌くらいだった。そのため、アメリカの最新トリックを日本で知ることができるのは、おそらくリアルタイムから遅れること数カ月から半年後。さらに言葉の壁があるため、どうしても受け取る側の情報が希薄になってしまう。これはあくまでも個人的な見解だが、当時の日本のスケートボードはアメリカのそれと比べて最低でも10年は遅れていた印象がある。世界に羽ばたいて爪痕を残すことができた日本人スケーターは片手で数えられる程度だった。

 そんなスケートボード後進国とされた日本の状況を少しずつ変えていったのはYouTubeやソーシャルメディア、特にInstagramの登場だろう。

 もちろん、それまで日本のスケートシーンを築き、代々支えてきた世代の尽力があったことは決して忘れてはならないが、インターネットの普及によって海外とのタイムラグがなくなったことが決定的なゲームチェンジャーとなったと言える。当時の遅れた日本のスケートメディアの影響を受けず、リアルタイムで世界基準の動画を観ることができるようになったわけだ。さらには街中で滑る場所を失ったスケーターたちが協力して行政に掛け合い、スケートボードの専門施設であるスケートパークが各地に少しずつ増えていったことも日本の水準が高まった要因のひとつだろう。そうやって情報と環境が整うとともに、日本の若い世代のスキルが徐々にレベルアップしていった。

日本スケート界の救世主・堀米雄斗の登場

 そんな環境で育ち、日本のスケートシーンにとって救世主となり革命を起こしたのが渦中の堀米雄斗である。2010年代半ばにはアメリカの一流ブランドチームの仲間入りを果たし、やがて世界の強豪が集結するグローバルコンテストで次々と優勝を飾るようになっていった。「日本人はスケートボードに向いていない」という既成概念を粉々に破壊していったのだ。

 さらにそのタイミングでスケートボードがオリンピックの正式種目に決定。その影響かスケートパークが日本各地に急増し、練習する環境が確実に整備されていった。

【次ページ】 なぜ日本人スケーターが大金を稼ぐようになったのか

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