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「何度もソフトボールを辞めたいと」主将・山田恵里が明かす13年の重圧とマウンドに立つ上野由岐子を見る“幸せ”
posted2021/07/29 17:01
text by
田中大貴Daiki Tanaka
photograph by
Masaki Fujioka/JMPA
「今回の五輪はとても重く、怖くて辛くて苦しくて仕方ありませんでした」
ソフトボール日本代表の主将・山田恵里は、心の奥底で迫りくる重圧と恐怖、そして焦燥感と闘っていた。しかし、その想いを周囲には決して語ることはしなかった。耐え抜いた末に手にした金メダルだった。
山田は2008年北京五輪でも主将を務め、日本を金メダルに導いている。
「明らかに前回の北京とは違いました。自国開催、そして前回の金メダルチーム。そして、13年間という時を待ち続けての東京五輪。のしかかる重圧、そして自分たちが感じるプレッシャーが全く違いました」
前回は「挑戦者」として。でも今回はディフェンディングチャンピオンとして大会を迎えた。さらにソフトボール競技はロンドン五輪、リオデジャネイロ五輪と正式種目に採用されず、13年間の空白の時があった。その時間が山田らにさらなる苦悩を与えていた。
「何度も辞めたいと思う自分がいた」
「正直、五輪種目から除外された時は次の目標を見失っていましたし、何度もソフトボールを辞めたいと思う自分がいました。ただ、支えてくれたのはソフトボールを愛する皆さんの姿でした。支えて下さる皆さんが、五輪にソフトボールが復活すれば世界一になれると信じてくれていました。皆さんの声が原動力となり、恩返しをしなければいけない、だからソフトボールは辞められないと思った。五輪が開催されることを疑わず、信じてここまで来ることができました」
北京ではまだ24歳だった山田も、37歳になった。投の上野、打の山田としてソフトボール界で一時代を作り上げたレジェンドプレーヤー。本人自身もこの13年で立場が大きく変わったことを自覚している。
「責任、覚悟、立場……この13年間で変わったのはこの3つ。でも、変わらなかったのは自分を貫く勇気です」
ここまでの時間を「怖くて仕方なかった」と語るが、彼女はプレーヤーとして自分のスタイルを貫き通した。ソフトボールの力を信じ、日本チームの底力を信じ、自分のプレーを信じて歩みを止めなかったのだ。
アメリカのプロリーグにも挑戦し、日本に戻ってからも今季から新チームに身を置いて刺激を求め続けた。日本リーグでは首位打者を4回獲得したヒットメーカーは、考えうるすべてのチャレンジを試み、怖さや苦しみ、そして辛さから逃げなかった。