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「家出して3カ月の漫喫暮らし」「枕をしたら仕事をやるよ」壮絶な過去を超えてスターダムの朱里が亡き母に誓う“赤いベルト”の夢
posted2021/07/29 17:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
朱里にはほしいものがある。それはスターダムで一番輝いているもの、赤いベルト(ワールド・オブ・スターダム王座)だ。そのために朱里はスターダムにやって来たのだから。
小学生で習った空手が、格闘技との運命的な出会い
「男の子と走り回っていました。身体を動かすのが好きで、学級委員長を率先してやったり、とにかく明るい性格だったかな」
朱里はゆっくりと子どもの頃の話を始めた。小学生の頃、空手、そろばん、ダンス、水泳と4つの習い事をやっていたという。
「水泳は級があって1級まで取ると個人メドレーをやるんですが、かなり練習がきつかったです。内緒でたまに休んだりしてました(笑)。空手は伝統派空手をやっていました。組手ではなく型をやっていたので、闘うのではなく魅せる方ですね。
その時先生に目をかけてもらって、大学の練習にも連れて行ってもらってました。歩けなくなるくらい足の皮が擦り剥けて、階段上がるのもきついくらい疲労が溜まったりしていました。ひたすら基礎練習の繰り返し。基礎を大切になさっている先生で、何十回も何百回も繰り返して練習してましたね。きつい練習でしたけど、忍耐力は身につきました」
この空手が、格闘技との運命的な出会いとなる。
昨年他界した、女手一つで育ててくれた母の存在
「母は私にもダンサーになってほしかったみたいでした。ダンスが大好きだったんです。家に帰ると、スパルタでダンスの練習もしていましたね。懐かしいです」
朱里の母は昨年9月、子宮頸がんを患って他界した。フィリピン人の母ルーシーさんは国の家族を養うため、日本にダンサーとしてやって来た。
「小学6年生の時に両親が離婚することになって、母は女手一つで育ててくれました」
朱里の目からは涙があふれてきて止まらない。朱里は母の話になるといつも自然に涙が出てしまうという。朱里は涙顔で話を続けた。
「お母さんが夜中とかも働きに出ていました。日本という外国で、女手一つで子供を育てる。ものすごく辛いこともたくさんあったと思います。いつも辛い姿を見せないようにしていましたけど、泣いてる姿を何回も見ていました。私にとって尊敬する大好きな自慢の母です。
でも、反抗期は迷惑をかけまくっていましたね。高校を卒業したら、公務員になって家にちゃんとお金を入れて、生活が苦しくないようにさせてあげたいという気持ちがありました。でも、自分の中では他にやりたいことがあった。
女優さんになりたい。悩んだ結果、最悪の選択をしてしまいました」