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《視聴率56.4%の開会式》海老蔵と木遣り歌は“政治案件”だった…では“不評”の23年前長野五輪の開会式を覚えていますか?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byJIJI PRESS
posted2021/07/28 11:06
東京五輪開会式、市川海老蔵が披露した『暫(しばらく)』
長野五輪では、入場行進で各国選手団を大相撲の力士たちが先導したり、聖火をフィギュアスケートの伊藤みどりが卑弥呼の衣装で点火したり(同時にプッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』からアリア「ある晴れた日に」が流された)と、日本らしさを強調する演出があいついだ。これに対しては当時、冷ややかな反応が目立ったことを思い出す。このころにはすでに日本のアニメやゲームも世界的に流行していただけに、時代とのズレを感じた人も多かったのだろう。
長野五輪の開会式で総合プロデューサーを務めたのは、劇団四季を主宰する演出家の浅利慶太(故人)である。このとき、浅利のもとでシニア・プロデューサーを務めたテレビマンユニオン会長(当時)の萩元晴彦も、音楽アドバイザーについた指揮者の小澤征爾も、すでに60代だった。こうした重鎮の起用は、その数年前の1992年のアルベール冬季五輪では振付家・演出家のフィリップ・ドゥクフレ、同年のバルセロナ五輪では演劇集団「ラ・フーラ・デルス・バウス」と、新進気鋭のクリエイターたちが開会式の演出に抜擢されたのとは対照的である。
浅利は劇団経営者や政界ブレーンとしても実績があり、各界に広い人脈を持つだけに、政府や大会組織委員会にはそれに期待するところもあったのだろう。実際、大相撲力士の出演は、浅利と当時の相撲協会の境川理事長が一緒にゴルフをしているときに生まれたアイデアだとされる。また、聖火台の伊藤みどりにトーチを渡す最終走者には、イギリスの対人地雷禁止活動家のクリス・ムーンが起用されたが、こちらは組織委員会の事務総長・小林實(自治省=現・総務省出身)から提案されたものだという。浅利はこうした要望を巧みに演出プランに落とし込んでいったのである。
ひょっとすると、日本の政界や財界の関係者はこのとき、優秀なプロデューサーなら多少無理を言っても要望を聞き入れてくれると味をしめたのかもしれない。それが今回の東京五輪での“政治案件”の多発にもつながっているのではないか。
1964年の開会式は2時間だったのに…
長野五輪の開会式は、当時のオリンピックの流れからすると異例ずくめだった。冬季五輪では1992年のアルベールビル大会より夜の開会式が定着しつつあったが、長野では日中に行われた。これは、IOCの最大のスポンサーである全米テレビネットワークのNBCが拠を構えるアメリカ東部の夜の時間に合わせられたからだと、当時IOC委員だった猪谷千春がのちに明かしている(猪谷千春『IOC オリンピックを動かす巨大組織』新潮社)。おかげで浅利は、ライティングによる演出をあきらめざるをえなかった。