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「あの子見た目はいいけれど、試合がダメだよね」 戦闘服の女子レスラー・ジュリアの生き方と“白いベルト”への愛
posted2021/06/28 11:01
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
ジュリアは1994年2月、英国のロンドンで生まれた。グロリアと名付けられた。日本人の母はジュリアという名前を考えていたが、イタリア人の父は「グロリアでいくから」と押し切った。家族からは短く「グロ」と呼ばれていた。
だが、母親が用意していたジュリアというもう一つの名前は23年後にリングネームとして使われることになる。
ジュリアに0歳のロンドン時代の記憶はない。ジュリアは1歳になるかならないかで日本にやって来た。両親は家では英語で会話した。
「お父さんとは、日本語とイタリア語を混ぜて話してました。自分は英語力はゼロですね(笑)。イタリア語は、聞き取りくらいならなんとか」
小学校4年生の時に、1年間イタリアに住んだ。ローマで日本人学校に通っていた。最初はイタリアに永住するくらいの勢いで行ったのだけれど、家庭内に事情があったようで、また日本に戻って来た。国籍は20歳になった時に、イタリアではなく日本を選んだ。
「日本語上手だねえ。留学生?」とよく言われた。「日本人なんです。日本語しかしゃべれないんで、ごめんなさい、こんな顔してるくせに」とジュリアは返したという。
すごく高額だったヘアメイクの学校の学費
イタリアン・レストランで働くようになる。料理も作ったし、店長まで任された。
「好きな料理ひとつ? 迷うなあ……。ローマ風のカルボナーラ。日本のと違って生クリームを使わない、固ゆでのショートパスタ、中が空洞のリガトーニを芯が感じられるアルデンテにゆでて、それにパンチェッタ・ベーコン、生ハム・スライスの余ったかけら――。ああ、レシピ全部言いたいくらい。我慢します(笑)」
イタリア式の本場のパスタは日本人の口に合わず「なにこれ、ゆでてないじゃない。食べてみなよ」と言われたこともある。店では日本人の口に合わせたものを出すようになった。「でも、私は本場のヤツが好きですね」。
そんなジュリアが次に目指したのはヘアメイクの仕事。東京に出てきてヘアメイクの学校に1年間通うのだが、プログラムごとの学費がすごく高額で、家賃や生活費も払わなくてはならなかったから、普通のアルバイトではそれをまかなうことができなかった。かなりのお金が必要だったので、それだけの報酬が得られるキャバクラで働くことにした。初めはいやだったのだけれど、少しずつやり甲斐も感じるようになった。