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「お母さんにも連絡がつかなくて…」 宮城県利府町出身の藤本つかさが震災後の試合で感じた“プロレスの役割”

posted2021/03/11 06:00

 
「お母さんにも連絡がつかなくて…」 宮城県利府町出身の藤本つかさが震災後の試合で感じた“プロレスの役割”<Number Web> photograph by Norihiro Hashimoto

宮城県利府町出身の藤本つかさは、震災から10年経った今も被災地を勇気づけている

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橋本宗洋

橋本宗洋Norihiro Hashimoto

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Norihiro Hashimoto

 地震があると、それが小さなものでも「いい加減にしてよ」と思ってしまうのだと藤本つかさは言った。地元の家族の顔も頭に浮かぶという。

「やっぱり地震は憎いです。憎しみって、もしかしたら一番消えにくい感情なのかもしれない」

 女子プロレス団体アイスリボンのシングル王者であり取締役選手代表の藤本は、宮城県利府町の出身だ。「海も山も川もダムもある」土地で、スポーツ万能の少女は小学校から高校まで皆勤賞。学校が好きで地元が好きで、そこに住む人々が好きだった。大学も隣の仙台市にある東北福祉大を選んだ。「地元を出る気はまったくなかった」が、就職した会社の配属先が東京本社だったため22歳で上京した。

「お母さんにも連絡がつかなくて」

「スクランブル交差点で“全員に挨拶できない、どうしよう”って思ったんですよ。いや本当に(笑)。利府町では知らない人でもすれ違ったら挨拶するのが普通だったので。東京に来てみて、あれはいい習慣だったなって思うようになりました」

 東京では芸能活動も始めた。運動神経のよさは芸能人フットサルチームでも発揮される。レスラーになったのは、プロレスを題材にした映画に出演したことがきっかけだった。2008年8月にデビューし、2010年1月にシングル王者に。12月に2度目の戴冠を果たす。年が明け、2度目の防衛戦まであとわずかという時に東日本大震災が起きた。

 2011年3月11日の午後、藤本は同僚のレスラーと一緒に道場(埼玉県蕨市)近くのファミリーレストランにいた。最初は「大きな地震だったから、関東が震源だと思いました」。

 夜はCSのプロレス専門チャンネルに出演する予定になっていたが交通機関が動かない。都内のスタジオまで2、3時間かけて歩いた。途中、インターネットで宮城にも被害が及んだことを知ったが、詳細は分からない。ようやくたどり着いたスタジオで、藤本は東北の惨状を知る。

「お母さんにも連絡がつかなくて……その日の番組は顔が死んでましたね」

【次ページ】 「助かった」という連絡の直後に津波に飲まれた友人も

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