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リンクマンながら“3つのポジション”を担ったローター・マテウスの自負「誰かに感化されることはなかった」
text by
アレクシス・メヌーゲAlexis Menuge
photograph byL’Équipe
posted2021/02/21 17:01
90年のW杯イタリア大会ではドイツ代表の主将を務め優勝に貢献。選手として絶頂期だった
マテウス メンヒェングラードバッハのユースチームでプレーをはじめたとき僕は10番だった。プロデビューの際に監督がふたつポジションを下げた。バイエルンでは10番をつけていたけれども役割はずっと8番だった。でもたしかに僕は、現代の選手たちが実践しているプレーを、自分なりの解釈で体現していた稀な存在だったかも知れない。ある意味例外でもあった。
試合の間、状況により6番としても8番としても10番としてもプレーした。当時は誰もやろうとしなかったことだった。あるときズボニミール・ボバンにこう言われた。「僕はリンクマンとして自分が偉大だったと思うけど、君は異なる3つのポストでトップだった」と。これ以上の言葉はないね。
異能なるリンクマンの自負
――80~90年代にインスパイアされた選手は誰かいますか?
マテウス 特にいない。リンクマンが与えられたポストであったとはいえ、僕は3つの異なるポストをひとりで担っていた。だからどんなときにも最大限の努力を惜しまなかったし、誰かに感化されることもなかった。
――最後はリベロとしてキャリアを終えましたが……。
マテウス それはむしろ守備的MFの現代バージョンともいうべきもので、ふたりのセンターバックの間にポジションをとって相手をおびき寄せるやり方で、機を見ては中盤に上がっていた。バイエルンではしばしば3バックシステムが採用されたが、僕がずっとディフェンスラインに残っていることはなかった。
――パリ・サンジェルマンのマルキーニョスが中盤でプレーする際にそうであるように、今はリンクマンがしばしばセンターバックの間に下がり攻撃の起点になっています。
マテウス 3人のディフェンダーのひとりは、中盤で数的優位を作ろうとしなければならない。3人が同一ライン上に留まり続けることは稀だし、守備にのみ専念することも少ない。彼らの誰かひとりは、状況が許す限り前方にズレを生じさせる動きをするべきだ。
――あなたは1988~92年までの4シーズンをインテルで過ごしました。リンクマンの概念と役割もブンデスリーガとは異なったのではありませんか?