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「サイドバックはゲームの推進力」マルディーニが語る「サッキ革命」とSBの深い関係性 

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バレンティン・パウルッツィ

バレンティン・パウルッツィValentin Pauluzzi

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photograph byJean-Claude Pichon/L’Équipe

posted2021/02/14 17:01

「サイドバックはゲームの推進力」マルディーニが語る「サッキ革命」とSBの深い関係性<Number Web> photograph by Jean-Claude Pichon/L’Équipe

88−89シーズンのCL王者に輝いたミラン。マルディーニ(中央で左手ピースサイン)は「サッキ革命」の重要なピースだった

マルディーニ EURO2000がそうだったが、あまりフィットしたとは言い難かった。当時32歳の僕には、あのポジションに求められる走力がもはや足りなかった。しばしば息切れして試合から消えることがあった。

――アルベルト・ザッケローニのミラン(1998~2001年)では3バックのひとりとしてプレーしましたが、あなた自身はサイドバックとセンターバックのどちらを適所だと考えていますか?

マルディーニ その中間だ。担当するピッチのゾーンには広大なスペースがあり、センターフォワードでも右ウイングでもない選手をそこで捕まえるのは簡単ではない。だから容易に数的優位を作り出せる。ディフェンダーの攻撃参加への対処が難しいからだ。当初僕は懐疑的だったが、しばらくすると状況を楽しむようになり、多くのアシストをすることができた。逆に守備の局面では、3人でピッチの横幅をカバーするのは難しかった。

SBからCBにポジションを変えた理由

――慣れ親しんだサイドバックからセンターバックにポジションを変えたのはどうしてですか?

マルディーニ 94年アメリカW杯や同じ年のCL決勝(ヨハン・クライフ率いるバルセロナに4対0で勝利)で、僕は負傷欠場のフランコ・バレージに代わりセンターバックでプレーした。それからザッケローニ監督の3年間はふたつのポストをどちらもこなした。アンチェロッティに代わってからは左サイドバックに戻り、イスタンブールでのリバプールとのCL決勝(3対3、PK戦2対3でミランの敗戦)も左でプレーした。僕がもう左ではプレーしたくないとわかっていても、監督は試合によって左で起用せざるを得なかった。

――CL最後の試合となったアーセナル戦(=ラウンド16第2戦、2008年3月4日)でも、40歳になろうとしていたあなたは左サイドバックでプレーしました。

マルディーニ アスリートが年齢を重ねると影響が出るのは力やスピードではなく、長いピッチをカバーする力だ。短いスプリントは問題ないが、50mのスプリントが本当にきつくなる。

――ペップ・グアルディオラがボールに数多く触れてゲームメイクをするサイドバックという概念を確立しました。

マルディーニ だんだんとゲームを構築するためのスペースを見つけにくくなっている状況で、誰もが技術的・戦術的に進歩を遂げた。ボールを素早く回せるときに監督はこう思う。「これでスペースに攻撃を仕掛けられる。何故ならサイドバックは、ボールを預けたあとにオーバーラップできる数少ないポジションのひとつだからだ」と。ロベルト・カルロスやマルセロが高くポジションをとったとき、彼らはすでに11番(ウイング)になっているが、自陣からボールを運ぶのは別のビジョンでありずっと効果的でもある。だからこそサイドバックに大きな責任を与えようとする。

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