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「打撃なし“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑

posted2021/02/13 11:03

 
「打撃なし“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑<Number Web> photograph by KYODO

講道館柔道の創始者・嘉納治五郎(左)。約100年前の柔拳試合(柔道vsボクシング)を伝える神戸新聞

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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KYODO

 嘉納健治が柔拳興行を手掛けるようになった頃、それと並行するように、裏社会における健治の動向も賑々しくなっていることに注目したい。(前編から続く)

 殖産興業が盛んになるにともない、石炭資源に注目した明治の資本家は、炭鉱開発を契機に地域との結びつきを強めていた。神戸の嘉納財閥もその一つで、彼らがとりわけ重視したのが福岡の筑豊炭鉱である。

神戸やくざの源流は九州の炭鉱社会

 嘉納治五郎が講道館柔道の九州普及に乗り出す際、本家の政治力を頼みにしたのも頷ける話で、嘉納健治もその恩恵にあずかろうとした。筑豊の炭鉱王中島徳松や、火野葦平の小説『花と龍』のモデルとなった博徒の吉田磯吉など、多くの侠客と義兄弟の契りを交わすのだ。

 これらの人脈を買われた嘉納健治は、吉田磯吉の子分で、神戸やくざの始祖、富永亀吉の富永組に客分として身を寄せることになる。このとき健治の配下に付いたとされるのが、後年神戸市政をも操る大島秀吉で、その大島の子分が、のちに山口組を興す山口春吉である。

 つまり、九州の炭鉱社会を源流とする神戸やくざの勃興に、嘉納健治は関係していることになる。前出の老人(前編)が「ピス健は今で言う山口組みたいなもの」と証言するのは戦前の歴史を辿れば明らかで、このことは後年の日本の格闘技界にも実は影響を与えている。

「楽屋へ大変なのが来た。神戸の有名な親分で嘉納健治といふ」

 1922(大正11)年、親分の富永亀吉が殺されると、嘉納健治は富永組をいち早くまとめ、自らの舎弟である大島を後継に押し立てた。そうして、神戸の裏社会を実質的に牛耳るのだ。

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