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箱根駅伝中継の生みの親が忘れられない早大の“大ブレーキ” 「残酷だと言われればそうかもしれない」
posted2021/01/02 06:04
text by
松山梢Kozue Matsuyama
photograph by
JIJI PRESS
初出:Sports Graphic Number Do 2013 Winter<冬の体づくり特集> 体が変われば人生が変わる!?(肩書などすべて当時)
1987年から始まった 大正9年にスタートし、今回で89回を数える箱根駅伝。大学駅伝の関東チャンピオンを決める地方大会が、「正月の風物詩」と呼ばれ全国的に人気を集めるようになったのは、1987年から始まったテレビ中継の影響が大きい。長い歴史の中でも最大のターニングポイントと言っていいだろう。
日本テレビの元プロデューサー坂田信久さんは、216kmにも及ぶ初中継の総責任者を務めた、いわば箱根中継の生みの親だ。「生中継は不可能」とされた放送を成功させた男に、その舞台裏を語ってもらった。
箱根の山で生中継をするのは技術的に不可能だった
「当時テレビ東京が最終区の生放送をしていましたが、僕は箱根の山を放送できなければ意味がないと思っていました。ただし冬の箱根の山で生中継をするのは当時、技術的に不可能だった。選手を追う移動中継車から発信された電波は、一度ヘリコプターに飛ばして本社に送らなければいけないのですが、電波は木の葉1枚でも遮蔽物があると通らない繊網なもの。さらに冬の箱根は気流の変化が激しく、ヘリコブターを飛ばせない可能性も大きかったんです」
役員会から正式なゴーサインが出ない中、「誰もできないことをやるのはおもしろい」と技術の同期が賛同し、半ば組織を無視して個人的な繋がりで準備を始めた。技術や速報システムを研究するスタッフとおよそ1年半かけて検討したプランを連名の企画書にし、当時の社長らに直談判。そして86年の春、やっと企画にゴーサインが出る。
「ヘリコプターが仮に飛ばなくても放送できるよう、山の高い所に電波を受信できる基地を作りました。今は中継車のアンテナとヘリコプターが自動的に向き合うようになっていますが、当時は常に人間がヘリを探してアンテナを動かしていた。僕らはそのスタッフを“人間羅針盤”と呼んでいました(笑)」