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31歳の“戦力外通告”、巨人・田原誠次「143試合中128試合で投げた男」…2年前、契約更改での“事件”とは
posted2020/12/29 11:08
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
「今日も田原が投げるのか……」
背番号37がコールされると、場内に鳴り響くのは登場曲レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『Around the World』。あの頃、東京ドームへ行く度にマウンドへ上がる田原誠次を見ていた気がする。
第2次原政権が終わり、現役引退してすぐの高橋由伸監督が就任した巨人はV3時代の主力選手が高齢化し、世代交代も滞っていた。最強キャッチャー阿部慎之助の時代が終焉し、岡本和真もまだ2軍育成中で、2016年開幕戦の巨人スタメンは「4番ギャレット、5番クルーズ」である。当時、最も話題になったのはスタンドで観戦するマイコラスの嫁ローレンさん。“球場に行けば会える美人妻”ってそれ野球に全然関係ないんじゃ……なんて真っ当な突っ込みは野暮だろう。
1800万円「最もお得な中継ぎ投手」
今振り返ると、完全にチームの過渡期である。16年シーズンは広島カープに独走を許し、エース菅野智之は最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得したものの、打線の援護にまったく恵まれず、サワム……じゃなくて救援陣が打ち込まれ勝ち星を消されることも多く、プロ入り以来ワーストの9勝に終わった。そんな時代に、雨の日も風の日もいつも静かに腕を振り続けたサイド右腕が、田原誠次だったのである。剛速球があるわけでも絶対的なウイニングショットを持っていたわけでもない。ストレート、スライダー、カーブ、シンカーを織り交ぜ巧みに打者を料理して、当時の年俸はたったの1800万円。「ジャパネットたはら。この男、巨人で最もお得な中継ぎ投手」なんてコラムを書いた記憶がある。
田原は菅野や小林誠司と同じ89年生まれ。11年のドラフト7位で巨人入り。12年のルーキーイヤーに32試合投げ、チームの新人としては50年ぶりの2日連続勝利を記録。しかし、2年目は腰痛に苦しみ、オフにはFA人的補償候補として報道された。その後低迷するも、15年秋のヤクルトとのクライマックスシリーズでは全4試合で登板。飛躍のきっかけとなり、由伸新監督が就任したプロ5年目の16年、働いてまた働く時代遅れの熱血営業マンのように投げまくった。
「イス作り」→奇跡的なドラフト指名
正直、アマ球界では長く無名の存在で、プロ入り後もチームを代表するようなスター選手ではない。