ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
ゴミが飛び交い「やめろ」コールも…「たけしプロレス軍団」参戦に観客激怒 新日本、87年12月の悲劇
posted2020/12/31 11:02
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
プロレスはオフシーズンがないスポーツだ。2020年も各団体が年の瀬のギリギリまで興行を開催することが決まっており、大晦日興行も珍しくなくなった。
しかし、このような状態になったのは多団体時代が顕著となった二十数年前からのことで、昭和の時代は新日本プロレスと全日本プロレスの年末のタッグリーグ戦が終わると、プロレス団体は12月半ばから年に一度の長めのオフを取ることが常だった。
そんな慣習を破ったビッグイベントとして知られているのが、1987年12月27日、両国国技館で行われた新日本プロレスの『イヤー・エンド・イン国技館』だ。
ADVERTISEMENT
翌28日の夜8時からテレビ朝日系列で2時間枠の特番での録画放送が組まれ、あのビートたけしがリングに登場するという話題性がありながら、最終的には怒った観客が暴動を起こすという最悪の結末を迎えてしまったことで知られるこの大会。あらためて、その顛末を振り返ってみたい。
ビートたけし率いる「たけしプロレス軍団」の参戦
当初、『イヤー・エンド・イン国技館』のメインイベントとして組まれていたのは、アントニオ猪木vs.長州力の一騎打ちだった。この年の春、長州は全日本プロレス(所属はジャパンプロレス)を離脱し、新日本プロレスにカムバック。6月からは猪木に対し世代交代を迫り、ライバルの藤波辰巳(現・辰爾)や前田日明らと結託し、新旧世代闘争をスタート。猪木戦は、それから半年後にようやく組まれた頂上対決だった。
当時、猪木vs.長州は、猪木vs.前田と並んで新日本が組める最高のカードのひとつ。しかし、テレビ視聴者である一般層にはやや訴求力が足りないと考えられたのか、年末特番用の“飛び道具”が投入される。それがビートたけし率いる「たけしプロレス軍団(TPG)」の参戦だった。
TPGは「たけしがスカウトしたレスラーを猪木に挑戦させる」というラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』内で生まれた企画に新日本が乗り、『東京スポーツ』が紙面で煽るかたちで、新日本のメインのストーリーラインとは別個に進んでいったもの。
これが実現した背景には、『ビートたけしのスポーツ大将』という番組が新日本の『ワールドプロレスリング』と同じテレビ朝日系列で放送されていたこと。またこの年の新日本のテレビ放送は、視聴率テコ入れのために、試合だけを中継するスタイルから、山田邦子をMCに迎えバラエティ色を強めた『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にリニューアル。
それまでプロレス番組はテレ朝のスポーツ班で制作されていたが、『ギブUPまで待てない!!』はバラエティ班に担当が変更されていたため、同じバラエティ班制作の『ビートたけしのスポーツ大将』とのコラボレーションが実現することとなったのだ。