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父の死でラグビーを諦め一度は自衛隊の道へ…今、釜石で再起を誓う青年に何があったのか
posted2020/10/01 11:00
text by
多羅正崇Masataka Tara
photograph by
Yoshiyasu Saijo/Grafica Inc.
ラグビーW杯の開会式が青年の運命を変えた。
2019年9月20日、専修大学ラグビー部の4年生だった片岡領(かたおか・りょう)は東京スタジアムで開幕したラグビーW杯のテレビ中継を観ていた。日本の伝統美を基調とした情感溢れる開会式を眺めるうち、思いがけず感動に震えた。固かったはずの決心が、揺らいでいた。
休部を決意した、父との別れ
19年の春。多くの新4年生が学生最後のシーズンに鼻息を荒くする季節に、片岡は沈痛な面持ちだった。専修大を率いる村田亙監督と向き合い、こう伝えた。
「休部させてください」
関東大学リーグ戦1部に所属する専修大で、片岡は複数ポジションをこなせる貴重な4年生スタンドオフだった。
香川、兵庫で育った3兄弟の末っ子はラグビースクール時代から器用で、キャプテンを務めた埼玉・昌平高校でもスクラムハーフ、フルバックをこなした。179cmのサイズがあり、前年度はリーグ戦1部の4試合にリザーブ出場。欠かせぬ戦力だった。
元日本代表スクラムハーフの村田監督はもちろん説得を試みた。片岡の事情は知っていた。
「村田さんは『なんとか頑張ってくれないか』と引き留めてくれました。でも、自分の中では『もうダメだな』という感じでした」(片岡)
片岡は19年3月9日、父・譲(ゆずる)さんを失っていた。緊急搬送から数日後に亡くなる突然の別れだった。
「亡くなる3日前くらいに体調が悪いということで病院に運ばれました。専修大で練習中に連絡がきて『あと2日くらいが限界』と聞いて、すぐ駆けつけました」
お酒は好きだったが、大病はなかった。しかし片岡の誕生日の2日前、譲さんは多臓器不全で帰らぬ人となった。父の存在の大きさを噛みしめる日々が始まった。
「厳しくて『昔のお父さん』という感じでしたが、どんなに遠い試合会場でも新幹線で応援に来てくれました。たまに埼玉の実家に帰ると、晩酌をしながら嬉しそうにラグビーの話を聞いてくれました。親父が喜ぶところを見たいと思ってやってきました。でも、もう伝えられないんだと思うと、考えていた以上に、ショックでした」