ツバメの観察日記BACK NUMBER
20年前命を絶ったヤクルトのエース、
高野光の遺品整理で出てきたもの。
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2020/07/27 17:00
プロ入り1年目に開幕投手を務めた。通算成績は182試合51勝55敗、1986年にはオールスターにも出場した。
「家族には辛い姿は一切見せませんでした」
「調子がいいときはいいけど、成績が悪いと叩かれるし、長い間、故障に苦しんでもいましたから、そういう姿を間近で見るのは辛かったですね。でも、家族には辛い姿は一切見せませんでした。プライドが高かったんですね。
世間の人から見れば、“気が優しすぎる”と言われることが多かったけど、家族から見れば決してそんなことはなかったんです。それでも、小さい頃から“オレが、オレが”と率先して前に出るタイプではなかったですね」
韓国チームの臨時投手コーチを務めていた2000年春から、自死を選ぶ秋までの半年間。高野さんは親しい人にも連絡を取っていなかった。しかし、死の直前には東海大学時代の恩師である岩井美樹氏に電話をかけ、「野球の仕事がしたい」と語っていたという。
関係者の多くが語る「人に弱みを見せるタイプではなかった」という言葉が重く響く。
契約金を両親に渡して、すべての借金を完済した。
プロ入り当時、高野家には大きな負債があった。しかし、高野さんは契約金を両親に渡して、すべての借金を完済したという。家族の中に感謝の思いは今でも強く残っている。
「人間の記憶って薄れていくのは当然のことですけど、私たち家族だけでもお兄ちゃんのことはきちんと記憶していたいと、ずっと思っています。
今、私たちが幸せでいられるのはお兄ちゃんのおかげなので、ずっと忘れたくないんです。今日はこうして、わざわざ来ていただいて本当にどうもありがとうございました」
妹さんのご自宅には、背番号「34」のユニフォームが、今でも大切に保管されているという。
東海大学時代に獲得したトロフィーの数々などは野球殿堂博物館に寄贈することが決まった。