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英雄アイルトン・セナが愛したF1。
1994年5月1日は決意の日でもある。
posted2020/05/01 11:50
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
AFLO
F1界にとって5月1日は、“タンブレロの悲劇”の日として、記憶されている。
いまから、26年前の1994年。イタリア・イモラで開催されたサンマリノGPで、3度のワールドチャンピオンを獲得し、'80年代後半から'90年代前半にかけてのF1で、絶大な人気を誇っていたアイルトン・セナが、レース中にイモラ・サーキットの高速コーナーである“タンブレロ”で、原因不明のトラブルに遭い、コンクリートウォールにクラッシュし、34歳の若さで還らぬ人となった。
当時、最も人気のあったドライバーがトップを快走中に事故死するという衝撃は、モータースポーツ・ファンだけでなく、普段レースとは縁遠い一般の人々にも大きな悲しみを与えた。
世界中のテレビや新聞がトップニュースでセナの死を伝えた。日本もその例外ではなく、'87年から6年間、一緒にレースを戦ったホンダの東京・青山にある本社には全国から約4万5000人のファンが駆けつけたほどだった。
もちろん、セナの母国ブラジルは、さらに深い悲しみに包まれていた。セナの遺体を乗せた飛行機が帰ってくると、空港から埋葬される墓地までの道路には、約120万人もの市民が繰り出し、母国の英雄の死を悼んだ。
その前日にも、2週間後にも。
セナが亡くなった'94年のサンマリノGPとその次に開催されたモナコGPでは、ほかにも悲劇が起きていた。セナが亡くなる前日の4月30日の予選では、ローランド・ラッツェンバーガーがマシントラブルに見舞われて、コンクリートウォールに激突し、死亡。2週間後のモナコGPではカール・ベンドリンガーがフリー走行中にクラッシュし、頭部を激しく打ちつけて昏睡状態に陥り、病院で生命維持装置を付けられるという痛ましい事故も起きていた。
「もう、死のレースはたくさんだ」
「サーキットの黒い週末」
世界中のメディアの多くもセナの死を悲しむと同時に、F1の安全性を批判していたものである。