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14歳シャラポワが語った「目標」と
4歳からつけ続けたペンダント秘話。
text by
山口奈緒美Naomi Yamaguchi
photograph byHiromasa Mano
posted2020/03/02 19:00
2002年、その美貌と才能でIMGが総力で売り込む金の卵だったシャラポワが、ジャパン・オープン・ジュニアに出場した際のNumberインタビューにて。
初メジャーから最後の全豪まで。
シャラポワがテニスのスターを夢見て、ロシアのソチからアメリカに渡ったのは7歳のとき。母エレナはビザが取れず、ともに渡米した父ユーリも仕事をして稼がなくてはならなかったため、ニック・ボロテリー・アカデミー(今のIMGアカデミー)でのキャンプ生活ではなかなか会うこともできなかったという。
「一番辛い時期だった」と振り返ったことがあるが、そんな毎日を、両親からもらったネックレスをお守りのように身に付けて過ごしていたのだった。
体の成長に合わせてチェーンの部分は取り替え、「肌身離さず」だった少女時代の習慣からは卒業していったが、それでもコートではいつもこのペンダントをつけていた。
19歳の全米オープンで2つ目のメジャータイトルを手にしたときも、20歳での全豪オープン初優勝のときも、鬼門だったクレーの全仏オープンをついに制して生涯グランドスラムを達成した25歳の初夏の日も、初めて世界1位としてコートに立ったときも、ライバルのセリーナ・ウィリアムズに19回も負け続けた間も、肩の故障と戦い続けた日も、ドーピング違反による15カ月間の出場停止から戻って来た2017年の春も、現役最後の大会となった1カ月前の全豪オープンも……。
立ち位置がどう揺れ動こうとも。
「ロシアの妖精」ともてはやされた天才少女は、孤高の女王のイメージを強めながらも、女子テニスの理想とシンボルであり続け、やがてその美しいイメージは失墜した。しかし、その立ち位置がどう揺れ動こうとも、私はいつも彼女の首もとで激しく躍る十字架のペンダントヘッドを目で追っていた。
いつしか彼女は気軽に声を掛けられない存在になってしまったが、勝手にそう思っていただけで、そうではなかったのかもしれない。「聞きたいことが……」と言えば、いつも、昔と変わらず「オーケー」と背を屈めてくれる人だったのではないか。
出場停止だった期間を利用してハーバードのビジネススクールで学んでいると報じられたときは、ウィンブルドンの練習コートの脇で通信授業のテキストを広げていた、17歳のシャラポワの姿をふと思い出した。