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結婚を決意した廣瀬悠(パラ柔道)の
真意に、松岡修造がさらに切り込む! 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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photograph byYuki Suenaga

posted2019/09/30 07:00

結婚を決意した廣瀬悠(パラ柔道)の真意に、松岡修造がさらに切り込む!<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

いつも笑顔が絶えない、パラ柔道の日本トップ選手同士の夫妻。障害のある無しを越えて、おふたりから学ぶことは多い。

悠「健常者に追いつこうと頑張るのってなんか違う」

松岡「『自分からやる、絶対に勝ってやる!』みたいなことは?」

「ないです。だから試合も緊張しないです」

順子「それが悠さんのペースなんだと思います。たまに笑いながら練習したり、その練習だけを見るとマジメにやっているようには見えないんですけど、だんだんそれが悠さんのペースなんだなってわかってきて。

 逆に私はマジメにやり過ぎて、練習のしすぎでストレスが爆発しちゃうタイプだったので、悠さんに言われて学ぶことが多かったです。『もう少し肩の力を抜いて、楽しい気持ちで柔道をした方が強くなれるよ』と言われて。今はすごく前向きに柔道に取り組めるようになりました」

松岡「一所懸命で、マジメゆえに苦しんできた自分の柔道が、悠さんの練習を取り入れたことで変わったということですか」

順子「そうですね。義務的にやっていた感じだったのが、今は自分で考えてできる柔道に変わりました」

松岡「ここでも悠さんは、順子さんに幸せを1つ与えましたね。悠さんは、それまでの順子さんを見ていて、この柔道は辛いぞと思っていたんですか」

「はい。練習しないと弱くなるとか、勝たないとダメだというのが強く出すぎていて、横で見ていて辛そうだなと。勝っても負けてもそれは自分にしか跳ね返ってこないし、もっと気軽に考えれば良いやんって。負けたら柔道を辞めたら良いし、応援してくれる人が減るだけ。成績に縛られることなく、リラックスして自分の柔道をやろうというスタイルですね」

松岡「そういうスタイルにたどり着いたのは、いつ頃から?」

「僕も高校の時とかはキャプテンをやっていて、勝つのが当たり前、『練習中に歯(笑顔)を見せるな』みたいな中で柔道をやっていたんですけど、社会人になると柔道だけではこの先生活していけないことに気づいたんです。

 やはり、障害者になったことで、正直に言えば社会的地位も低くなって、社会の中でつまはじきにされた、と僕は思いました。普通ではないというレッテルを貼られたときに、じゃあ自分ならどうするか。僕は、少なくとも健常者に追いつこうと頑張るのってなんか違うなと思いました。そして、普通に生きていくだけで良いやんって思うようになりました」

松岡「そこまで無理して、自分をなくしてまでやる必要はないぜ、って」

「そう思いました」

松岡「じゃあ本当に『ありのまま』なんですね。悠さんという個性があって、みんなそこに惹かれていくわけだ。でも……『ありのまま』って本当に難しいことです。みんな人に良く思われたいとか、勝って認めてほしいとか思うわけじゃないですか。でもそうじゃない。自分らしくいろよって。順子さんは今、自分らしくいられてますか」

順子「そうですね。はい。自分らしくいられていると思います」

 そして、話はいよいよ夫婦揃って出場したリオ・パラリンピックの体験談へ――。

 構成:小堀隆司

廣瀬順子(ひろせ・じゅんこ)

1990年10月12日、山口県生まれ。小学校で柔道をはじめ、高校時代にはインターハイに出場。大学1年の時に膠原病を患い視力が低下、一旦は柔道から離れるが、視覚障害者柔道に転向。2014年アジアパラ競技大会で銀メダル。
2015年に悠さんと結婚すると、2016年リオパラリンピックに出場し、女子57kg級で日本の女子選手として初の銅メダルを獲得した。2018年世界選手権で銀メダル。伊藤忠丸紅鉄鋼所属。

廣瀬悠(ひろせ・はるか)

1979年7月17日、愛媛県生まれ。小学校で柔道をはじめ、高校時代にはインターハイに出場。その後緑内障を患い、25歳で視覚障害者柔道を始める。2008年北京パラリンピックに出場し、男子100kg級で5位。
2015年に順子さんと結婚。2016年リオパラリンピックに出場し、男子90kg級9位。伊藤忠丸紅鉄鋼所属

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