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<米国を愛したメジャーリーガー>
長谷川滋利「僕のアメリカン・ライフ」 

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photograph byKazukaki Nshiyama

posted2015/05/07 06:00

<米国を愛したメジャーリーガー>長谷川滋利「僕のアメリカン・ライフ」<Number Web> photograph by Kazukaki Nshiyama
「野球選手でなければ、商社マンになりたかった」  日本人最多のメジャー登板数を誇る鉄腕は、ずっと海の向こうを夢見ていた。  誰よりも彼の地に根差した野球選手が語る、「幸せな生活」とは――。

 長谷川滋利の場合は、同学年の野茂英雄のように「メジャーリーガーになりたい」という夢があったわけではない。それでも'97年の渡米からメジャーで9年にわたり投げ続け、通算517試合の登板は日本人歴代1位。その活躍を支えたのは「アメリカに住みたい」という強烈な憧憬だった。引退後もカリフォルニアに居を構える長谷川が、愛してやまないアメリカ生活を語る。

 初めてアメリカに住みたいと思ったのは、立命館大学2年生のとき。野茂くんや古田敦也さんも名を連ねたソウル五輪日本代表の選考合宿に参加して、代表からは漏れてしまったのですが、Bチームで海外遠征に行けることになりました。といっても、このときはカナダのバンクーバーでしたが。

 だけど、そこで北米特有の「風の匂い」に惹かれたんです。カラッとして、何とも言えない心地良さがありました。このとき、アメリカに住みたいと強く思ったんです。

 '91年にオリックスに入団すると、'93年のオフには既に、球団にメジャー挑戦の意思を伝えていました。だから、野茂くんの挑戦を聞いたときは「先を越された」と衝撃を受けて。それからというもの、キャンプでは同部屋の星野伸之さんに英単語の勉強を手伝ってもらったり、助っ人のトロイ・ニールやD・Jと一緒にアメリカン・バーに繰り出したりしていました。

 '95、'96年にパ・リーグを連覇した後、金銭トレードでアナハイム(現・ロサンゼルス)・エンゼルスに入団することが決まります。野茂くんから遅れること2年、念願のアメリカ生活が始まったのです。

 もちろん、最初は不安でした。僕が住むことにしたニューポートビーチは白人社会で、当時のエンゼルスにはアジア系すらいませんでしたから。家族を連れてきていたので治安の心配もあったし、先発デビュー戦で打たれ、すぐにリリーフに配置転換されるという不本意な目にも遭いました。

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長谷川滋利

MLBの前後のコラム

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