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中島翔哉の“助走期間”を見続けた男。
安間貴義に届いた1通のメッセージ。
text by
渡辺功Isao Watanabe
photograph byAFLO
posted2018/10/28 11:30
カターレ富山時代の中島翔哉。当時、現在の活躍ぶりを想像した人はどれだけいるだろう。
「文句出てもドリブルしろ」
「パスをもらってもゴールに向かわず、次の横パスをするために身体が横に開いちゃうんです。その当時のヴェルディがワンタッチ、ツータッチでボールを動かすサッカーを志向していたから。試合に出たくて、それに合わせていたみたいなんですけど。ボールを失いたくないからと積極性まで失って、かえってパスミスも多くなっていた。
自分の特長を出すことを忘れていたので、まずは『誰に文句を言われてもいいから、お前はドリブルしろ』って言ったんです。そうしたら素直だから、本当にやりたいようにやるようになりました。まぁその分、シラ(白崎凌兵、現清水エスパルス)をはじめ、周りの選手でカバーしてやる必要があったし、試合中『なんでパス出さねぇんだよ』って、実際に怒る選手もいたんですけどね(苦笑)」
開幕戦からスタメンの座を勝ち取ったものの、3節の横浜FC戦では「相手を追い掛けまわしたり、難しいことはできなくても良いから、スタートポジションまで戻せ」という最低限の守備の約束事ができていなかったことから、75分に途中交代を命じられた。
すると怒りを露わに、そばにあったペットボトルに苛立ちをぶつけるあたりは、まだ19歳。血気盛んだったといったところか。
シュート練習ではブツブツと。
その後は先発フル出場を続けていくのだが、移籍後初ゴールは10節の松本山雅戦の先制点まで持ち越された。じつはチームのシーズン初勝利も、この試合まで待たされることとなる。結局富山では28試合に出場して、奪ったのはわずか2ゴールだった。
「理由は単純に、クオリティが低かったからです。キックの種類も少なかったし、枠に持っていくだけの技術もなかった。だけど、翔哉はシュート練習ひとつにしても、常に海外でプレーするところを想い描いて、そこから逆算してコースやボールの質にこだわっていたんです。こちらが良いコースに飛んだなと思うようなシュートを撃っても、『世界レベルだったら、あそこじゃ決まらない』なんてブツブツ言いながら、ずっと練習していたんです。
海外に行って認められるには、数字で結果を残さなくちゃいけなくなることも理解していましたから。全体練習が終わったあとも、食事を済ませると、また練習場にやって来ては、いつまでもボールを蹴っていました。結局、繰り返すことでしか、クオリティって上がらないんですよ。
J2には練習グラウンドが公共施設で、利用時間に制約のあるクラブも多いですけど、富山には自由に使えるグラウンドがあったことも大きかった。そんなに上手くはなかったかもしれないけど、周りの選手たちも向上心とこだわりのあるサッカー小僧ばかりでしたし。そういう意味で、あの時期のアイツにとっては、良い環境だったのかもしれません」