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「アマボクシングに命懸けとる」
山根明の書かれざる素顔。 

text by

前田衷

前田衷Makoto Maeda

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photograph byKyodo News

posted2018/08/10 18:30

「アマボクシングに命懸けとる」山根明の書かれざる素顔。<Number Web> photograph by Kyodo News

わずか5分で辞任会見を終えた山根明前会長。騒動はこれで収まるか。

「いい人」だという関係者も。

 例えば、今回問題となったJSC(日本スポーツ振興センター)からの助成金の分配などがまさにそれである。「助成金不正使用」と追及されたが、本人の懐に入れたわけでもない。3選手に助成金を受けさせたいのに、JSCからは1人のみと指定されたので、勝手に配分した。

 自ら「親心からしたこと」と言うように、これが山根流の“常識”なのである。のちに「助成金の主旨を知らなかった」と謝罪したが、今でも悪いことをしたとは思っていないはずだ。

 今回の騒動で山根氏の評判を取材して回った複数のテレビ関係者が「いい人だという意見もありました」と言っていたが、番組や記事ではこうした声はほとんど取り上げられることがなかった。

 多くのスポーツ競技団体の幹部たちはほとんどが大学・高校など教育関係を出身母体にして出てくる。日本ボクシング連盟も山根氏の登場以前はやはり大学の指導者たちが仕切っていた。山根体制以前も同じように独裁型で、当時から疑惑の判定が横行し、学閥の弊害も指摘されていた。

村田、清水のメダル獲得で涙。

 そんな中、極めて特異なコースを歩んでのし上がってきたのが山根氏だった。奈良県連の会長を足掛かりにこの道をスタート。当時ボクシング不毛の県だった奈良の強化を依頼されてこれに取り組み、優秀な指導者を育て、五輪代表になるようなボクサーを養成した。

 こうした実績を背に、近畿(現関西)連盟の会長となり、やがては日本連盟のトップの座につく。

 この間、5年ほど病に伏していた時期があり、一部からは“死に体”とみられていたが、不死鳥のようにカムバックし、'11年に日連会長に就任する。

 翌年のロンドン五輪での、金(村田諒太)、銅(清水聡)の複数メダル獲得はボクシング史上初の快挙だった。村田と清水の2人がメダル確定となった時点で山根氏が現地から電話をかけてきて、感激のあまり泣き出し、会話ができない状態になったこともあった。激情型の人なのである。

【次ページ】 電話するとゴッドファーザーの曲。

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