酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
星野仙一が闘将になる「前」の話。
最強ドラフト世代の初代セーブ王。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2018/02/15 10:30
闘将と巨人キラーというのが星野のイメージだが、ストッパーとしても超優秀だったのだ。
5年目までのセーブ数を独自計算すると。
では中日の投手、星野仙一はどんな選手だったのか。
ドラフト同期の山田、東尾、同級生の高橋一三、池永正明などは、全登板の6割以上が先発登板だ。当時のエースは、先発と救援を掛け持ちするのが普通だったが、それでも先発が基本だった。
しかし、星野仙一は500登板のうち、先発は243試合だけ。比率から言えば「星野仙一は救援投手だった」と言っても良いのだ。
入団から、5年目までの成績を見ていこう。まだセーブ制は導入されていない。セーブは独自に計算したものだ。
<1969年> 49登板16先発8勝9敗12セーブ 防御率3.11(セーブ数リーグ1位)
<1970年> 41登板24先発10勝14敗3セーブ 防御率3.64(同6位タイ)
<1971年> 35登板6先発9勝5敗7セーブ 防御率3.46(同4位)
<1972年> 48登板0先発9勝8敗20セーブ 防御率2.00(同1位)
<1973年> 44登板15先発16勝11敗3セーブ 防御率3.04(同8位タイ)
若いころの星野仙一は、投手の役割がまだ明確ではなかった時代に、セットアッパー、クローザーとして起用された。先発は、その合間の仕事だった。1972年などは、すべて救援、20セーブはセーブ制導入以前では、1965年の巨人・宮田征典の22セーブに次ぐ記録だ。
板東英二に次ぐリリーフエースの系譜。
中日は、空前のドラフト大豊作年に獲得したドラ1星野を、なぜ救援で使ったのか?評価が低かったのか?
そうではない。中日は、他球団よりも早くに投手の分業を推進していた。星野の前に、すでにリリーフエースがいたのだ。
このコラムでも紹介した板東英二だ。板東は1965年11セーブ(2位)、'66年11セーブ(1位)、'67年7セーブ(1位)を記録。星野と入れ替わりに'69年限りで引退したが、そのリリーフエースの系譜を継いだのが、星野仙一だったのだ。
板東も、星野も心意気で投げる度胸のいい投手。'69年当時の中日、水原茂監督は、星野にリリーフ投手の資質を感じたのだろう。