オリンピックへの道BACK NUMBER
その頭脳は平昌、そして北京を標的に。
宮原知子がこの1年間で築いた“芯”。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAsami Enomoto
posted2017/12/25 11:50
初めてスケートを滑ったのはアメリカで暮らしていた4歳の時だという宮原。初めてのオリンピックでどこまで結果を出せるか?
10月頃……ほぼ平昌は絶望的だと思われた。
その過程を振り返れば、全日本選手権特有の緊張感だけが重圧となっていたわけではない。
疲労骨折により、競技人生で初めて長期にわたって氷上を離れることとなり、その後も思うように復帰への道を描けないまま進んできて、ようやく迎えた全日本選手権だった。
10月、復帰戦として予定していた国際大会を欠場せざるを得なくなったときは、平昌五輪を目指すにしては、危機的な状況を迎えていたと言っていい。
その時、濱田美栄コーチは宮原に言葉をかけたという。
「5年後を目指していきましょう。25歳でもオリンピックには出られるから」
コーチの言葉を、宮原は黙って聞いていた。
「自分としては平昌オリンピックをあきらめていませんでしたし、全日本に合わせたいという気持ちも変わりませんでした」
もし疲労骨折が再発したら……。
思いはずっと揺らぐことはなかったと当時を振り返る宮原だが、復帰へ向けての道は医者をはじめとする専門家らとともに慎重に慎重を重ねて進められてきた。
もし疲労骨折が再発すれば、すべての努力は無に帰す――。
長く続くはずの競技人生全体にも影響を及ぼす。
「5年後を目指す」というのは、宮原の中に焦りが生じないようにという心遣いから出たコーチの言葉であったし、宮原が置かれていた状況を客観的に示してもいると思う。
そこからわずか約2カ月で迎えた全日本選手権。
「(宮原は)泣き言ひとつ言わなかった。右足がだめなら左足でできること、ジャンプが跳べなかったらステップをやる、という……ふつうの選手なら、練習仲間がトリプルアクセルや3回転-3回転を跳んでいる中、足や体の状態のせいでスケーティングしかできないとなったら焦ってしまうはず。
(宮原の)淡々とできることをやり続けるすごさは、私も勉強になりました。<中略>ただただ、ひたむきに、すごく練習をするので、私の方があの子の気持ちに引っ張られてここまで来たんです」
濱田コーチの涙は、宮原のここに至るまでのすべての過程を見てきたからのものであった。