オリンピックへの道BACK NUMBER
その頭脳は平昌、そして北京を標的に。
宮原知子がこの1年間で築いた“芯”。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAsami Enomoto
posted2017/12/25 11:50
初めてスケートを滑ったのはアメリカで暮らしていた4歳の時だという宮原。初めてのオリンピックでどこまで結果を出せるか?
濱田コーチが「私が尊敬します」とコメント。
当の宮原は、こう語った。
「今までで1番うれしい優勝です。ここまで頑張ってきたので、ここでやらずにはいられない……『絶対やる!』と思っていました」
「今までのスケート人生の中で、一番中身の詰まった、重要な1年だったと思います」
コメントの中で、何度も「今まで」と繰り返したところには、この優勝の重みが表れていた。
この1年間の過程は尊い。
そこで成し遂げられたものは、濱田コーチが「私が(宮原を)尊敬します」と言うほど尋常ならざる努力で培われた、アスリートとしての“芯”にほかならない。
いかなるときも揺らがなかった「オリンピックへ行く」という目標。
あまりにも大きな困難を乗り越えて、宮原はそれをつかみとったのだ。
高校の卒業時の論文は「五輪の魔物」論。
しかし、余韻も覚めやらぬ場内で表彰台に立っているとき、宮原は勝利の喜びに浸っているだけではなかった。
「ここからがスタートだと思っていました」
この大会の先を、すでに見据えていた。
その言葉を聞いて、今年の新春のインタビュー時の話を思い起こす。
宮原は高校卒業時の論文を、「五輪の魔物」をテーマに書いている。その理由を尋ねると、こう答えた。
「オリンピックはほかの試合とは違って、雰囲気が違ったり魔物がいるというのは有名な話なので、なぜそう言われるようになったのか、そういうものを感じないための対処法を知りたいと思いました」
織田信成、高橋大輔ら多数の五輪経験者に取材してまとめたのだと言う。
そこから得た結論は? そう問いかけると……。
「自分の中にいる、『自分で作り出してしまうもの』なんじゃないかなと思いました。まわりに余計に影響されたり、自分で勝手に過大な期待をしてしまったり。そうすることで生まれる緊張や力みが、より大きな舞台なのでより大きくなって『魔物』になってしまうんじゃないかと。難しいことだと思うんですけど、なるべく普段どおりに滑ったらいいんじゃないかと思います」
その論文執筆もまた、宮原が当時からすでに先を見据えて考えていたからだろう。
自分はどうなりたいか、どうありたいかを客観的に思い描き、形にするために必要な努力を一切怠らない宮原を示す、象徴的なエピソードであるようにあらためて思えた。