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大家友和、引退と特殊なキャリア。
「生涯、野球からは離れない」
text by
ナガオ勝司Katsushi Nagao
photograph byKyodo News
posted2017/06/20 11:00
2011年シーズン限りで横浜を退団してからも、BCリーグでのプレーやナックルボーラーへの転向と挑戦を続けてきた。
アメリカのコーチのたった一言で悩みが解決した。
そこから抜け出すため、アメリカ教育リーグへの志願。ただし、送り込まれたのは複数球団の有望株がひしめく秋季リーグではなく、20歳前後の若手が多いルーキーリーグ・レベルのキャンプだった。練習試合にさえ参加できなかったが、そこでレッドソックスのコーチ陣に潜在能力を見出される。
「今まで悩んでいたことが、アメリカのコーチのたった一言で解決してしまった。こっちは英語なんてしゃべれないし、水のボトルひとつ買うにも必死だったけど、向こうも何とかして伝えようと考えたと思う。シンプルに『Stay Back』と言われただけで、体が突っ込むこともなくなったし、軸足にしっかり体重を乗せることもできるようになった。日本に帰って次の年、イースタンリーグで最優秀防御率のタイトルが取れたのは偶然じゃないんですよ」
日本人史上9人目だったメジャー初昇格。
1998年は横浜ベイスターズが球団史上2度目の日本一となったシーズンで、野村弘樹、三浦大輔、斎藤隆(奇遇なことに彼も後にレッドソックスのユニフォームを着ることになる)の3人が2けた勝利を挙げた上に、川村丈夫や戸叶尚らも先発投手陣に名を連ねていた。紙幅がないので詳細は省くが、とどのつまり、横浜は大家を「あきらめた」。一方のレッドソックスにとっては「掘り出し物」を探り当てたことになる。
1999年、レッドソックスとマイナー契約した大家は、メジャーリーグより2階級下のAA級でシーズンをスタート。開幕から8連勝してAAA級へ昇格すると、そこでも連勝し、メジャーの先発投手が怪我をしてメジャー初昇格を果たした。
日本人としては史上9人目である。ただし、ベテランと中堅選手を優先起用した当時のレッドソックスのチーム事情にのみ込まれ、2年半の間に計7回(2001年の開幕メジャー含む)もメジャーに昇格したり、マイナーに降格したりを繰り返した。メジャーに定着するきっかけは2001年の夏、レッドソックスが実績ある救援投手を獲得するために大家を交換要員として差し出したことだった。