野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
15歳で指名され、一軍は上がれず。
辻本賢人「阪神に入ってよかった」
text by
酒井俊作(日刊スポーツ)Shunsaku Sakai(Nikkan Sports)
photograph byKyodo News
posted2017/01/30 07:00
プロの荒波に飛び込んで間もない辻本。彼が目の当たりにした選手たちの技量は、残酷なまでに圧倒的だった。
決断の大きな後押しになった、父親のひと言。
辻本は日本球界ではアウトローだ。「中学の野球部の練習がつらくてキツイ」と振り返るように、敷かれたレールからは自ら外れた。中学1年のときに米国へ留学し、アメリカンフットボールに明け暮れる。そして、ふと久しぶりに球を投げたら驚くほど球が速くなっていて、再び野球を始めたのだという。カリフォルニアのハイスクールで投げ続けて帰国すると、その評判が複数プロ球団のスカウトの耳に入った。
当時、ストレートは最速で140キロを超えていた。カーブなどを武器に、米国でもハイスクール1年時から最高学年のチームでプレーするなど、結果も出した。特に阪神は、編成部門のトップが「考え方や投球フォームは、しっかりしている」と高く評価。野球協約に抵触しないことも確認した。それでも懸念があった。年齢だ。力量、環境、タイミングなどを見定めつつ、指名を決断する大きな後押しになったのは父親のひと言だという。
「もし失敗しても本人の人生に大きなダメージを負うことなく、これからの人生を導けるようにします」
当時の球団社長だった野崎勝義は「阪神は長い間、スカウト活動が不十分で、低迷も味わっていた。新しいことにトライしようという時代でした。ご両親の考えを聞いて、彼を指名しても、彼の人生をつぶすことにならないだろうと、判断の助けになりました」と振り返る。
本人の強い意志、家族の支えがなければドラフト史上最年少指名は幻になっていたかもしれない。奇抜な発想は、いつでも、風当たりが強い。しかし、阪神は常識にとらわれることなく、チャレンジした。
在籍5年間で一度も一軍に昇格できなかったが……。
結論から言えば、'05年から'09年まで在籍5年で、一軍に昇格できなかった。
ウエスタン・リーグ25試合 0勝1敗 27回 自責16 防御率5.33。
辻本が日本のプロ野球に残した足跡は一見、取るに足りない。だが、いままで誰も歩いたことがない、たった1人だけの道だった。
「つらかったですよ。ケガでリハビリしている思い出しかない」
右肩負傷、左手骨折、腰椎疲労骨折……。ケガばかりで、まともにシーズンを過ごせなかった。ドラフト直後「体ができていない」として、指名に異を唱えた球界関係者もいた。だが、辻本は首を振る。