ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER

いま、Jr.ヘビー級が世界的ブーム!
原点は獣神サンダー・ライガーに。 

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

PROFILE

photograph byEssei Hara

posted2016/05/18 10:40

いま、Jr.ヘビー級が世界的ブーム!原点は獣神サンダー・ライガーに。<Number Web> photograph by Essei Hara

KUSHIDAは中学から高田道場に入門し、大学時代は東スポでアルバイトしていたまさに「ド真ん中」のプロレスラーだ。

ジュニアの試合がメインを張ったのは1991年のこと。

 そんな“ライガー時代”第1のエポックとなった大会が、'91年の『トップ・オブ・ザ・スーパー・ジュニア』だ。これは'88年に開催され、高田、越中、馳らが優勝を争ったジュニアヘビー級のリーグ戦を3年ぶりに復活させたものだったが、この'91年の『スーパー・ジュニア』こそ、現在まで続く、新日ジュニアの原点。ジュニアの礎を築いた、記念碑的な大会だった。

 この大会は、ライガーを中心に、保永昇男、ペガサス・キッド(クリス・ベノワ)、ネグロ・カサス、オーエン・ハート、デイブ・フィンレー、フライング・スコーピオと、日本、北米、欧州、メキシコのジュニアヘビー級トップ選手が一堂に集結。初代タイガーマスク時代、高田・越中時代から一新されたメンバーがハイレベルな闘いを展開し、まさにジュニア新時代の幕開けを感じさせるものとなった。

 特筆すべきは、この『スーパー・ジュニア』の決勝戦ライガーvs.保永が、'91年4月30日両国国技館のメインイベントで行われたことだ。ジュニアヘビー級の試合が、新日本のビッグマッチでメインを張るのは、タイガーマスクや藤波が王者の時代でもなかった初めてのこと。

 ライガーは保永に敗れ優勝こそ逃したものの、超満員の観衆を集め、沸かせたことで、ジュニアが主役になれることを証明したのだ。この大会の成功により、ジュニアのリーグ戦は毎年恒例となり、現在まで続いている。

ライガーの作った大会が、アメリカでもブレイク。

 ここからライガーは、ジュニアヘビー級のアイコンであると同時に、ジュニア全体のプロデューサー的立場となり、さらなる拡大を試みていく。

 そして'94年4月16日両国国技館、ライガー自身が音頭を取り、団体の枠を超えたジュニアのワンナイトトーナメント『スーパーJ-CUP』を初めて開催。新日本を中心に、みちのくプロレス、WAR、FMW、アメリカのWCW、メキシコのEMLLなどから空前のメンバーを集め、ジュニアヘビー級の魅力を満天下に示したのだ。

 この大会では、みちのくのザ・グレート・サスケや、先日亡くなったFMWのハヤブサが大ブレイク。また、主催を各団体の持ち回りとすることで、翌年の第2回大会はWAR、第3回大会はみちのくプロレスが主催。業界最大手の新日本が美味しいところを持っていくのではなく、業界全体を底上げしたことで、大きく評価された。

 そして、このジュニアヘビー級ムーブメントは海を渡り、アメリカのメジャー団体にも飛び火する。'96年にWCWがクルーザー級王座を制定し、そこではウルティモ・ドラゴン、クリス・ジェリコ、レイ・ミステリオ・ジュニア、ディーン・マレンコ、エディ・ゲレロら、日本のジュニアヘビー級シーンを彩った選手たちが大活躍。ライガー自身も新日本のシリーズの合間を縫って出場し、全米に向けてレベルの高い試合を提供した。

 この時期、アメリカではWCWが人気でWWEを圧倒。同日同時刻にWWEとWCWのテレビ番組が放送されていた“月曜テレビ戦争”でも、WCWが83週連続で視聴率を上回り、WWEを廃業寸前に追い込んでいた。その原動力となっていたのが、ハルク・ホーガンがヒール転向して大ブームを起こしていたnWoというユニットと、“日本育ち”のジュニアヘビー級レスラーたちだったのだ。ライガーが起こしたジュニアのムーブメントは、いわば世界を制したのだ。

【次ページ】 今回の日米関係は、提携ではなく競争相手。

BACK 1 2 3 4 NEXT
#獣神サンダー・ライガー
#新日本プロレス
#KUSHIDA

プロレスの前後の記事

ページトップ