自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
三分坂、鳥居坂、芋洗坂、狸穴坂……
坂だらけの港区に東京の歴史を見た。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2010/09/18 08:00
神宮の杜にレトロな佇まい、都営霞ヶ丘アパート。
それにしても、この界隈「華やかな青山」を自転車で巡っていて意外に目につくのが、超ビンテージ・マンション(またはアパート)のことだ。こんなところに? と思うようなところに、大規模で古い鉄筋コンクリート群が存在している。
ひとつには老朽化した都営アパートだ。
たとえば神宮外苑の都営霞ヶ丘アパート。住居表示を見ると、このあたり離れ小島のようになぜか新宿区なんだが、千駄ヶ谷、外苑前などの駅からもほど近く、周囲を緑に囲まれた、文字通りの都心一等地である。
ところが、この一角だけ、昭和のまま時が停まってる。入り口1階にあるミニミニ商店街(?)「外苑マーケット」など、外観も、中に入ってみても、これはもうあまりに昭和、というより、20世紀のアジア、という感じ。私はなにか「返還前の香港の路地裏」みたいなものを思い出してしまった。
「見てよ、お兄さん、レタスが半個で200円よ。テレビでも言ってたけど、猛暑で葉ものが高いのよねぇ」
買い物に来ていたかなり年配のご婦人が話しかけてくる。私をつかまえて「お兄さん」はないと思うが(お嬢さん、ありがとう)、これ幸いと霞ヶ丘アパートについてちょっとだけ聞いてみる。
「いつ頃、建ったんですか?」
「そうね、詳しいことは知らないけれど、東京オリンピックの前にはあったって聞いたわよ」
庶民のあこがれだった2DKの生活。
後で調べてみると、1960年(昭和35年)から63年(同38年)にかけて建設されたのだという。リキマンションよりちょっとだけ古い。ご婦人によると「住民みんな年をとったわね」とのこと。でも、住んでいる人の入れ替えが少なく、みんな知り合いで住みやすいという。
昭和30年代、東京中にこうした「都営アパート」が続々できた。間取りはおおむね2DKで、これはGHQの指導によるものだったそうだ。
今となっては「うわ狭い!」というレベルではあるものの、食べる部屋と眠る部屋が分離された間取りは、ちゃぶ台生活(つまり食べるところと寝るところが一緒)だった日本人には新鮮なカルチャーだった。当然、当時の庶民のあこがれの的となり、都営アパート募集は、毎度毎度の高倍率抽選となったという。
私ヒキタの少年時代も同じような「社宅アパート」にあった。だから、こうして見ても、郵便受け(無骨な金属製)、コンクリートの階段(エレベーターはない)、各戸から飛び出た風呂沸かしの煙突(バランス釜だ)、など、すべてが懐かしいよ。