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<トライアスロン女王への挑戦> 上田藍 「金メダルまで39秒」 

text by

赤坂英一

赤坂英一Eiichi Akasaka

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photograph byAFLO

posted2012/07/11 06:01

<トライアスロン女王への挑戦> 上田藍 「金メダルまで39秒」<Number Web> photograph by AFLO

「これといった素質は何もなかった」上田だが……。

 そういう山根も、上田と初めて会った10年前は、全然将来性を感じなかったという。

「これといった素質は何もなかった。水泳やランのタイムも大したことないし、インターハイに出ていたわけでもないし。どこかで大化けする可能性も感じられませんでした」

 事実、上田はいまに至るまで、伸び盛りのアスリートにはよく見られる、急激な成長を遂げた時期がない。ただひたすら、来る日も来る日も地道な練習を続けることによって、ここまでやってきたのだ。

 1983年10月26日、京都に生まれた上田が最初に始めたのは水泳だった。4歳で兄に倣ってスイミングスクールに入る。片道30分の距離をマウンテンバイクで通った。中学では水泳部に所属する傍ら、陸上部の助っ人として駅伝に出場している。いつも元気のいい上田の姿を見て、スクールに通う父と同世代のおじさんたちがこんな声をかけてきた。

「藍ちゃん、トライアスロンをやったらいいんじゃないか。水泳、自転車、ランニング、好きなことがみんなできるよ」

 それが、トライアスロンという競技に興味を覚えた最初のきっかけだった。

両親が手描き友禅の職人という環境で育まれたもの。

 父・守男、母・ひとみはともに手描き友禅の職人である。自宅2階の8畳2間を工房にして、黙々と絵筆を走らせる両親の姿を見ながら、上田は育った。小学生時代は絵画教室にも通い、いまでもイラストはうまい。基礎練習から手を抜かず、その成果をコツコツと積み上げてゆく辛抱強い性格は、きめ細やかな両親の仕事ぶりに接しているうち、自然と育まれてきたものなのだろう。

 中学3年生で全国中学駅伝大会で区間賞を取り、母校の3位入賞にも貢献。これが評価されて、京都府立洛北高校に推薦入学した。だが、目標だった3000m走での全国大会出場は実現できず。落ち込んでいたとき、父の友人にトライアスロンの大会に出るように勧められた。この初挑戦で初優勝。やっと、自分の進むべき道を見つけた思いがした。

「藍なら、いつか勝てるから」。支えとなった両親の言葉。

 結果が出ずに悩んでいたころ、両親に言われた言葉を、いまも上田は忘れない。

「藍、いまじゃないんだよ。いつか勝てればいいんだ。藍なら、いつか勝てるから」

 その「いつか」がやってきた。

 母が専門誌で山根英紀というコーチの存在を知り、父が山根の経営する稲毛インターナショナルトライアスロンクラブに電話を入れる。京都駅の喫茶店で山根に会う約束を取りつけ、上田を連れて行き、指導してほしいと直談判した。

 クラブに会費を納めてくれるなら、と山根は答えた。2000年のシドニー五輪に代表選手を送り込み、会員数も100人を超えている。一地方大会で初優勝したばかりの無名の高校生になど興味は持てない。上田が胸を躍らせて京都から千葉の稲毛までやってきたときも、思わずこう言ったほどである。

「あっ、ホントに来たんだ」

【次ページ】 辛抱強い練習が結実し、'08年アジア選手権で涙の優勝。

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