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<美しき孤高の滑走者> 岡崎朋美 「38歳、五度目の正直」 ~特集:バンクーバーに挑む~
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byKenta Yoshizawa
posted2009/12/19 08:00
結婚を契機にメンタル面の安定度は盤石に。
メンタル的にも、元々プラス思考で安定していたが、さらに落ち着きが増したようだ。
「やっぱり、トリノが終わってから結婚したことが大きいですね。結婚する前は、漠然とまた同じ4年間のサイクルを繰り返してバンクーバーを目指すのかな、と考えていました。でも自分の中で何かを変えないと、だんだん進化もきつくなってきたぞ、と思い始めて。
そんなタイミングで主人と巡り合い、話もトントンと進んだ。初めて会ったときからずっと近くにいたような感じだったし、これは運命的だなと思いました。自分で何かを変えようと思っていた時に舞い込んできましたから」
夫の安武宏倫さんは、高校、大学と野球部でピッチャーだったアスリートである。
「主人は『バンクーバーで、もうひと花咲かせろ』と応援してくれています。風邪をひいて休んでいると、『他の選手は今ごろどんな練習をしてるんだ?』とか言って、自分のことのように不安になってる(笑)。トリノのころは、引退してから結婚相手を探すのなら、もうお見合いしかないかな? と不安だったけど、そういう心配をもうしなくていいのはありがたいですね」
地道な努力の積み重ねで、平凡な選手から日本のエースに。
岡崎のキャリアを振り返ると、典型的な大器晩成型である。高校を卒業した'90年、「世界の橋本聖子さんと同じチームで自分の力を試したい」と思い、富士急に入ったが、当時はオリンピックなど夢のまた夢だった。
'92年、同い年の島崎京子、上原三枝、井上純一がアルベールビル五輪に出た。気にはなったがそれでも「私には無関係」だった。
だが、持ち前の身体能力が徐々に開花し始める。'94年、リレハンメル五輪代表に選ばれ、「最初で最後だろう」と思いながら滑った。結果は14位だったが、世界の舞台で戦う楽しさは格別だと知った。
力はさらに伸び、'98年には島崎とダブルエースの看板を引っ提げて長野五輪へ向かった。
「シマと一緒に頑張れば、どちらかが金メダル、うまくいけば2人でワンツーも取れるぞ、と思っていました。結果的に私が銅メダルだったのですが、やはり2人で抜きつ抜かれつしていたからこそ、という思いがある。本当にいい関係でしたね。でも、実際のところ一番大変だったのは、長野の1年前に突然出てきたスラップスケートの攻略でした」
スラップへの対応には難儀したが、その分、記録は飛躍的に伸びていった。岡崎は滑るたびにタイムを縮め、やがて記録更新という喜びに目覚めていく。
高校時代の最高成績がインターハイ4位という平凡な選手だった岡崎を発掘し、世界のトップレベルに育て上げた富士急の長田照正総監督はこう語る。
「長野でメダルを取りましたが、私から見ると彼女にはまだ、詰め込める部分が多くあった。最初はいくつもあった課題を、毎年一つずつ、あるいは半分ずつ減らしながら、ここまでたどり着いたのです」
日々の努力で課題を少しずつ克服してきたからこそ、そしてメンタル面が安定しているからこそ、岡崎は本番に強い。長野からトリノまで3度の五輪で、いずれも日本女子の最高成績を残している。