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岩隈久志 悠々として鋭く。
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byTakuya Sugiyama
posted2009/03/12 00:00
かつて、鋭敏さの中にどこか線の細さを感じさせた男は、
今やどっしりとした落ち着きと、確かな自信を身につけている。
アテネの屈辱から5年。成長を遂げたエースが、再び世界に挑む。
リップサービスなど滅多にしない岩隈久志にしては、珍しい光景だった。
「マー君(田中将大)、魔球ができました!」
三日月型の目が一層、細くなる。
記者が色めくと同時に、カメラマンのシャッターを切る音が急にせわしなくなった。
2月11日、楽天の久米島キャンプでのことだ。ブルペンでの投球練習を控え、同じくWBCの代表候補だった田中将大とサブグラウンドで軽くキャッチボールをしていた岩隈は、二人の様子をのんびりと眺めていた報道陣にそう叫んで「小ネタ」を提供した。
キャッチボールで使っていたのは、縫い目が高く、空気抵抗が大きいとされるWBC使用球。そのため、強い海風の影響もあってか、田中が遊び感覚で投じていたフォークの変化がいつも以上に大きかったらしく、岩隈は子どものように感嘆の声を上げながら捕球していたのだ。
「ナックルみたいに、揺れながら落ちてましたからね。風のせいもあったと思いますけど」
練習後、取り囲む報道陣に対し、岩隈は自分なりのWBC球対策を丁寧に解説した。
「自分の(フォークの)場合は、あそこまで深く挟むと抜けてしまう。だから、ちょっと浅めに握るぐらいの感覚の方がいい。それで落差もいつもと同じぐらいになる。普通のボールよりも革が硬くて、表面もツルツルした感じがありますけど、僕はけっこう汗をかくほうなので大丈夫だと思いますよ。手もしっとりとなりますから。疲れが出始めるとコントロールがきかなくなるというか、修正が難しい面がありますけど、万全でさえあれば、ボールの違いはあんまり関係ないんじゃないですかね」
WBCに向け、調整は上々のようだった。ある番記者も、いつになく饒舌だったその日の様子に驚きを隠さなかった。確かに数年前の岩隈なら想像しにくい姿だ。
昨シーズン、岩隈は、周囲の完投を望む声に背を向け、100球をめどに何度となく自らマウンドを降りた。オフに右ヒジを手術していたこともあり、完投にこだわるよりも、できる限り疲労を蓄積せずに「1年間ローテーションを守る」ことを優先させたかったためだ。結果、リーグ最多となる201回と3分の2を投げ、21勝4敗という驚異的な数字を残した。
そこから浮かび上がるのは、いかなる雑音をもシャットアウトし、マイペースを貫く、悠々とした岩隈像だ。だが、そんな姿とは裏腹に、元来、神経は脆い方だと話すのは投手コーチの杉山賢人だ。
「一昨年までの岩隈は、打たれ出すと止まらないところがあった。もういいや、って。甘いというか、気持ちが切れちゃうんですよ。それがはっきりと顔にも出てましたからね。WBCでは、普通にやれれば問題ないと思うんですけどね。普通にやれればね」
監督である野村克也も、岩隈にそんな徴候がわずかでも見えるとすかさず指摘していた。昨季、5月2日の日本ハム戦で、5回途中、5失点で降板したときはこうぼやいた。
「あれだけの球があるのに、バッターを見下ろすところがないんだよなあ……」
確かに、少女漫画の登場人物のようにきれいな顔立ちの奥に、ときおり、そういった神経のか細さをうかがわせることがある。思えば、そんな気質を大舞台で露呈してしまったのが5年前の夏だった。
初めてオールプロで臨んだ2004年のアテネ五輪。その年、プロ入り5年目の岩隈は、開幕から12連勝を飾るなど乗りに乗っており、当然のごとく代表メンバーに名を連ねていた。だが、予選リーグ2戦目のオランダ戦に先発すると、格下相手にもかかわらず、4四死球と制球を乱し、2回すら持たず3失点でKOされてしまう。結局、この一戦で首脳陣の信頼を失った岩隈は、このあと1試合も投げることなく五輪を終えた。
「オランダ戦のあとも、ブルペンで準備はしていたんです。もっと投げたかったんですけどね」
WBCを前に行なった今回のインタビューで、岩隈は当時をそう振り返った。
プロ入りするまでは無名の存在に近かった岩隈は、それまでの野球人生では日本代表とは縁がなかった。それだけに、23歳にして初めて袖を通した日の丸のユニフォームは想像以上に重みがあった。体調が万全でなかったこともあったが、何よりも気持ちを制御しきれていなかった。
「すごい重圧を感じていましたからね。まだ若く、経験も少なかったので、今までにないほど緊張してしまった。シーズン中とは、ぜんぜん雰囲気が違いました」
今や日本を代表するエースにまで成長した投手が、過去のこととはいえ、これほどまでに素直に自分の弱さを吐露するのには少し驚いた。
アテネ五輪で傷つけられた自尊心は、4年後の北京五輪で癒すつもりだった。だがその北京五輪では、最終選考時、両リーグトップの12勝を挙げていたにもかかわらず、まさかの落選。確実視されていたメンバーから漏れたのは、アテネ五輪における岩隈の印象も少なからず影響していたという。そんな昔の話を……と感じる一方で、北京五輪チームの監督だった星野仙一が好む「やせ我慢」といった種類の男臭さとは無縁な岩隈のことを思うと、そんな理由も少しはあったのかなと妙に納得してしまう部分もある。
北京五輪の選考に落ちたときの岩隈の落胆振りは相当なものだったらしく、コーチの杉山も一時はかなり気を揉んだそうだ。
「これで凹んでしまったら困るなと思っていたんですけど、あの挫折を逆に発憤材料にしてくれましたからね。やっぱり成長したんだなって思いましたね」
ただ、シーズンで何勝を挙げようとも、それは五輪の代替物とはならなかった。
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