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桜庭和志 「僕がいちばん言いたかったこと」
text by
石塚隆Takashi Ishizuka
posted2007/02/08 00:00
「いま秋山選手に対して特別な感情はありません」
桜庭は、その肌の滑る感覚について「経験したことのない異常さだった」と強い口調で言った。これまで、何千人という選手と肌を合わせてきた桜庭がふつうではないと判断した感触とはどういうものだったのか。
「僕は相手と組むときに例えば肘の関節部分や上腕の筋肉の盛り上がっている部分を引っ掛けたり掴んだりするんですが、まったく指に掛からなかったんです。どう表現していいか難しいんですがベビーローションがほんの少し滑らなくなった感触というか……。これまで色んな人と練習してきましたが、似ているなと思ったのは整髪料をつけている人とのスパーリングですね。体に何もつけていなくても、練習で汗をかいて整髪料が全身にまわって掴めなくなることがありました。今回は、それ以上に滑っていましたから」
試合開始1分半過ぎ、桜庭はタックルに入り秋山の左足を取りに行くも、軽く触れただけで逃げられてしまった。わずか数秒の出来事だったが、桜庭はすでにその指先に普段とはちがう違和感をもったという。
「踵の部分に触れたんですけど、ふつう多少なりとも指に引っ掛かるはずなのにスルッと抜けてしまった。あれっ、これおかしいなと思ったんですけど、どうやって抗議していいのか分からなくって」
この接触の直後、桜庭のキックが秋山の下腹部に入り試合はストップした。ブレイク中、桜庭はリング下にいるサブレフリーに向かい「滑る、滑る」とアピールした。が、審判陣は取り合うことなく試合は続行された。
「あのときは僕の言い方が悪かった。ただ『滑る』じゃなくて、『体が滑るし何か塗っているかもしれないからチェックしてほしい』と言えば良かった。これは僕の反省点ですね」
ただ、桜庭にとっても競技人生で初めてのケースであり、的確な対応ができないのは仕方のないことだった。もちろん、こんな状況を想定して練習をしている選手などいない。
そして、3分半過ぎの桜庭のタックル。ここでそれまで持っていた違和感は、ついに確信に変わった。タックルを抜くように切られた桜庭は、手をT字にしタイムを求めたが、ルール上、選手からのストップ要請は聞き入れられることはない。
「これは絶対におかしい、と。だからタイムを要請したけど、まあストップすることはないですよね。このとき、ロープの外にでも出てアピールすれば良かったけど、そこまでは考えつきませんでした。ルール上、仕方のないことだけどレフリーはもう少し聞く耳をもってもらいたいという気持ちはありました」
桜庭は殴られ続けた。下のポジションから腕十字や膝十字を狙うが、体が滑るのでままならない。桜庭は攻撃されながらも大声で滑ることを伝えようとした。だが返ってくるのは、「アクション!― アクション!」というレフリーの声と顔面を襲う強烈なパウンドだけだった。
「下にいるとき何かしなくちゃいけないと半分は頭の中では思ったけど、もう半分は滑るから何もできないよって。ただ、選手にしてみれば相手が何を言っていようとレフリーが止めないかぎり攻撃を休めることはしないし、あの状況ではしょうがない」